触れてはいけない距離

沈黙の匂い

 湊のいた客間が、妙に片付いていた。いや、不自然に整いすぎていた。まるで、誰もいなかったかのように。

 ベッドには皺ひとつなく、机の上も拭き取られたようになにもない。

(いつから……こんなに無機質だったっけ?)

 昨日までは確かにあったはずの生活感が、跡形もなく消えている。それに気づいたのは夜、客間のドアを開けたときだった。

 理由はなかった。ただ、なんとなく。早く帰宅した夜、綾乃が夕食を準備する音を背に、階段を上がっただけ。

 何気ない行動のはずだった。けれどそれが“はじまり”だった。

 引き出しをひとつ開ける。空っぽ。クローゼットも同じ。服は最小限しか残っていない。

(出ていった?)

 でも、それだけじゃなかった。客間の空気に、湿った重さが漂う。消えた気配と、もっと深い違和感が絡みつく。

 階下から、カチャリと食器の音がした。綾乃のいる気配。なのに、その音が遠く、まるで別の世界のようだった。

 彼女は何かを隠している。言葉じゃなく沈黙で。視線をそらす一瞬、息の乱れで。

(俺は……見逃してたのか?)

 崩れていたのは、とっくの昔だったのかもしれない。俺だけが信頼という嘘にすがって、目を閉じていた。

 湊が出て行ったのは、都合じゃない。綾乃が静かに食事を並べる姿、その背中が脆く揺れるのも、すべて繋がっている。

(まさか……)

 喉元まで出かけた言葉を飲み込む。信じたくない。だが勘は鋭く、確信に近かった。胸が冷える。

 彼らの間に“何かがあった”。まだ言葉にはできない。証拠もない。だが、空気は嘘をつかない。綾乃の瞳が、俺を避ける瞬間が、すべてを語る。

 綾乃の背中を見つめながら、崇はただ、立ち尽くしていた。まるでこの家から置き去りにされた、たった一人の男だったように。
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