紫陽花の憂鬱
色を変える紫陽花

デートは君の好きな場所で

 雨の季節が通り過ぎ、次第に歩くだけで汗ばむ時期になった。8月が目前に迫った7月の末の木曜日、日向と紫月はといえば定食屋で夕飯をつついていた。こうして二人で食事をするのは2回目で、前回は焼き鳥屋だった。ほどよい価格帯とそれなりの音がする空間は二人きりでも緊張せずに済み、紫月としては居心地が良かった。

「今週は忙しかったよね…紫月さんも後輩の指導しながらだと大変だったでしょ?」
「あっ、うん。でも遠藤くん、飲み込みがいいというかすぐ覚えるし、わからないところは勝手にやったりしないで確認も取ってくれるしで教えやすいよ。」
「そりゃ、紫月さんになら聞きやすいし、聞きたくもなるよね。羨ましい。」
「そ、そうかな…。上手く教えられてるといいんだけど…。」

 マグカップ1杯分の相談室から約1か月。日向は時折『紫月』と呼んだ。元々知っていたLINEの連絡先が帰りの食事の誘いで使われるようになり、そこの文面にも使われる『紫月』の文字が特別な響きに聞こえてしまうのは、日常の中で下の名前で呼ばれることがないからでもある。その一方で紫月は日向のことを一度も名前で呼ぶことができないでいた。

「それでさ、少し仕事の忙しさが落ち着いたので…紫月さん。」
「は、はいっ!」

 紫月は箸を置いた。そして膝の上に手を置き、ぐっと握る。

「デートしませんか?」
「…デート…?」

 紫月が問い返すと、日向は真っ直ぐに頷いた。
 日向とこうして食事をすることも他愛もない会話をすることも楽しい。しかし、デートとなると不安だった。仕事後であればメイクの崩れを直して、仕事着のままでよい。しかし、日向の隣に立っても大丈夫だと思える服装もパッとは思いつかないし、髪型や行く場所など、ぶわっと不安が広がった。

「紫月さーん!おーい!」
「ご、ごめんなさい!」
「えっ、断られた?」
「あっ、違う!」
「違う?っていうことはいいの?」
「えっと…私とデートしても…つまらないと思うっていうか…。」

 楽しくないわけではないのに、いつも少しだけ緊張が勝ってしまう。上手く笑えない。こういう時に姉のようであればきっと、にっこり笑って楽しそうに見えるのにと思ってさらに俯いてしまう。

「そんなことないよ。一緒にご飯食べるのも楽しいし、紫月さんの話も面白いよ。デートって言葉が重いなら、紫月さんのちょっとしたお出かけに俺を連れて行ってくれない?」
「…お出かけ…。お出かけといっても、スーパーとか…そうだなぁ、しいていえばロフトとかハンズには行く…かな?」
「あ、そうなんだ。何見るの?」
「文房具が好きで、あの、全部買うわけじゃなくて見るだけで癒されるっていうか…。」
「確かに、ちょっと見慣れない文房具、デスクにあるイメージだなぁ。」
「えっと、日向くんは休みの日は何してるの?」

 無理矢理話題を変えてしまう。自分の中にデートに関する引き出しがなさすぎて、日向と一緒に行けそうなところを提案できそうになかった。

「俺?最近はそうだなぁ、ずっと寝てた。寝て、スマホ見てたら一日終わる。」
「えっ?」
「だからね、紫月さんに聞いたの。俺の方が休みの日、引きこもりかも。それも、本当にただ寝るだけで、文房具触るとかそういうなんか、心が充実するみたいな趣味もなくてさ。」
「…前にも聞いたけど意外だよ、本当に。」
「疲れてるんだよーこれでも。顔には出てない?」

 紫月はコクコクと頷いた。紫月が頷くと、日向は柔らかく微笑んだ。

「…じゃあちゃんと、いつでも頼れてかっこいい同期でいれてる?」
「…もち、ろん。」

(…そうなんだよ…日向くんはちゃんとかっこいい。…かっこよさが前よりもよく見えるようになってしまった…。)

 日向に話を聞いてもらえたあの夜から、仕事はいつも通りにこなしているけれど、その仕事の隙間に見える些細な気配りやちょっとした言葉が心に残って、積もっていく。それは前にはなかったことで、紫月自身が一番戸惑っていた。そして今日は『デート』の言葉である。戸惑いは、視線を合わせられないでいることからもきっと日向に伝わってしまっている。

「仕事後にこうやってご飯行くのも楽しくて好きなんだけどさ、長くは過ごせないじゃん?だから、休みの日にいつもより少し長く、一緒に過ごしてみたいんだよね。」

(少し長く過ごしたら、いつもよりももっと話せるかもしれない。自分のダメなところも伝わってしまうかもしれないけれど、日向くんの良いところがたくさん見つかるかもしれない。…楽しく、過ごせるのかもしれない。)

 頭の中にたくさんの『かもしれない』が並ぶ。日向の笑顔に勇気づけられて、紫月は膝の上に置いたままの拳を握り直してから口を開いた。

「…あの、実は…行ってみたい場所があって、でもちょっと一人では勇気が出なかった場所なんだけど、そこでも…いいかな?」
「え…うん!もちろん。」

 日向がさらににこっと微笑む。それに胸を撫でおろし、紫月はカバンからスマートフォンを取り出した。検索をして、その画面をそのまま日向に見せる。

「…ブックカフェ?」
「うん。ここは静かな場所って感じではなくて、少しお喋りとかもして大丈夫で、フランクな感じなんだって。棚いっぱいの本っていうのを見てみたいなって思ってて。」
「確かに、それは壮観だね。あ、でも俺、最近本あんまり読んでないんだけど大丈夫かな?」
「うん。いろんな本があるみたいだし、雑誌とかもあるからしっかり読まなくても大丈夫って書いてあるよ。そこで本をじっくり読みたいっていうよりは、その空間に行ってみたいってだけなので…。」
「…そっか。じゃあ、いつにしようか。俺はいつでも暇なので、合わせるよ?」

 本当は紫月だっていつでも暇ではある。土日は図書館から借りた本を読んだり、その感想をノートに書いたりするだけで、誰かと何かをするような予定はない。だから本当は、今週末だって行けるのだ。しかし…

「…1週間、猶予を貰ってもいい、かな?」
「猶予?」

 紫月は強く頷いた。日向と出かけるのは、一人で出かけるのとは違う。気合が必要で、準備も頑張らなくてはならない。

「…あの、本当は予定なんか私もないので、今週末でも大丈夫なんだけど、その…日向くんと出かけられそうな夏服があるか今すぐはわからなくて…なのでこの土日は備えに使わせてもらって、来週でもいいかな?」

 全て正直に話すと、日向は「はは」と声を出して軽く笑った。

「来週って、そんなすぐでいいんだ。やった。」

 まるで少年のように笑う日向は、笑いながら口を開く。

「それに、そんなに気合入れて準備してくれるの?それも楽しみだな。」
「あっ、違うよ!気合を入れたとしてもそれは日向くんに恥をかかせないためのものであって、頑張ったところで素材は私だから何かが劇的に良くなるとかいうわけでもないっていうか…。」
「そう?素材が紫月さんの時点で、一緒に休みの日に出かけられるの、楽しみだけどね、俺は。」

 またさらりと、何てことない顔をして紫月の心を揺さぶる言葉が出てくる。紫月の心に静かに積み重なっていく日向の言葉は、紫月に新しい一歩を踏みださせる勇気をくれる。だから言えた。行きたいところがあると。

「…最低限、頑張るね。」
「頑張らなくて大丈夫だよ。…って言っても、頑張るのが紫月さん、だよね。」

 そう言って日向はまたにこっと微笑んだ。
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