紫陽花の憂鬱
待ち合わせは駅前から少し歩いた公園に10時だった。休日なのに6時には目が覚めてしまった紫月は、いつも通りに朝食を終え、片付けを済ませた。そして姿見の前で小花柄のロングワンピースを手に取った。普段のオフィスにはグレーやベージュなど、シックな色合いのものを着ていくことが多いが、今日はデートである。そして、日向につり合うべく、普段は着ない黄色のものをチョイスした。
(…似合わない…ことはないけど、派手、だったかな…やっぱり。)
『派手なものはお姉ちゃんの方が似合うんだから、紫月はやめておきなさい』
『そうよ、紫月はほら、こういうのが似合うって。』
ふと、姉と母の声が脳内で蘇った。派手なものは似合わない。たとえそれが好きな色でも。そんな風に育ってきたから、好きな色である黄色の服なんて一着も持っていなかった。それなのになぜ買ったのかと問われれば、着てみたかったから、なのかもしれないと思う。日向と出かけるのであれば、日向に恥をかかせるような服ではだめだという思いも強くある。それと、日向の隣に立って歩いてもいい今日という日には、自分が好きだと思うものを身に着けていたかったというのも理由の一つであるようにも思える。
(…もう、行く前からうだうだ悩まないの!)
日向が紫月の仕事ぶりを事あるごとに口に出して「ここがよかった」「あれは助かった」と言ってくれること、そして後輩の指導について『俺も紫月さんに指導されたいよ』と言ってくれること、日向のくれた言葉の一つ一つが紫月の心を勇気づけてくれていた。自分の前を堂々と歩き、振り返って笑顔を見せてくれる日向の前では、なるべく自分が好きでいられる自分でいたいと思うようになった。俯いてばかりの自分ではなく、自信がなくても顔を上げることのできる自分でありたい。そんな気持ちをきゅっと握って、紫月は『よしっ』と気合を入れた。
* * *
待ち合わせ場所まで行くと、日向は先に来ていたようだった。しかし、声を掛けるのに臆するような状況で、紫月の方がおろおろしてしまっていた。なぜなら、日向は2人組の女性に声を掛けられていたからだった。咄嗟にベンチの裏にしゃがんで隠れて、様子を見つめてしまう。紫月の距離からでは何を話しているのかは聞こえないが、日向はニコリともせずにスマートフォンを見つめ、そして今度は周囲を見回している。
不意に紫月のスマートフォンが揺れた。着信は日向だった。
「もっ…もしもし!」
「電話、出れる場所にいる?どこにいる?」
「あの…えっと、日向くんの周りにいる方のお話が終わったら出て行こうかと…。」
「えっ、着いてる?どこだろう。どこ?」
「お話、終わりましたか?」
「終わるも何も、紫月さんと待ち合わせしてるのに他の人と話すとか、ないよ。紫月さんを待ってるの。…ってことで、待ち合わせしてるんで。」
紫月が見つめるその先で、日向は2人組にぺこっと頭を下げて、きょろきょろしながら歩き出した。紫月はゆっくりと立ち上がった。『日向くん』と声を出せばいいのに、喉の奥が締まってしまったかのように声が出なかった。
スタイルもよくて髪もサラサラで、綺麗な二人だった。そういう人に、声を掛けられる人なのだ、日向はという事実は何となく想像できたことではあったのに、実際にこの目で見てしまうと、本当に今日の自分は日向の隣を歩いても大丈夫なのかと不安になる。紫月なりに精一杯頑張ったけれど、それでもさっきの2人に敵いそうにない。
ふと、日向の目が紫月を捉えた。すると、途端に日向の表情がふわっと柔らかな笑顔に変わった。日向は大股でずんずんと歩いてくると、紫月の前でぴたりと止まった。
「あー良かった!やっと会えた。」
「ご、ごめんなさい、遅くなっちゃって。」
「ううん、時間ぴったりだよ、紫月さん。俺がね早く来すぎちゃったんだ。」
「あの、お話は…大丈夫でしたか?」
「話なんてないよ、あの人たちとは。紫月さんはずっとここにいたの?」
「日向くんを探して、見つけたんですけど…あの、お二人がいたので終わるまでここで隠れてようかなって…。」
「だから裾にちょっと土がついちゃってるんだね。隠れてなくてよかったのに。」
「あっ!ごめんなさい、服の汚れにも気付かなくて…。」
「ううん。全然。」
日向がすっとしゃがんで、紫月のワンピースの裾の土を払った。そして紫月を見上げると優しい笑顔のまま口を開いた。
「黄色を着てる紫月さん、初めてみたかも。似合うね、明るい色。」
「…大丈夫、かな?」
「似合ってる。会社じゃ見れないね、こんな紫月さん。」
「会社に着ていくには色が明るすぎるから…。」
「このくらいの黄色は着てる人いるよ。大丈夫大丈夫。あ、でも会社には…うん、着てこなくてもいいかも。」
「どうして?」
「えー…だって、これはデートのために紫月さんが用意してくれたんでしょ?だったらデートの時に着てほしいな。」
日向の『デート』という言葉に頬が熱くなる。もう子供ではないのに、日向の言葉や笑顔に今日はドクドクと心臓がやけにうるさい。
日向がゆっくりと立ち上がった。さっきまで視線を下に向けなければ視線が合わなかった日向の目は、今はもう紫月の上にあった。
「…日向くんの隣に並んでも大丈夫なようにって考えて来たので、…今日はよろしくお願いします。」
紫月は静かに頭を下げた。すると、クスっと笑った声が頭上から聞こえて、紫月は顔を上げた。
「こちらこそ、1日よろしくお願いします。紫月さんの好きなもの、見れるの楽しみにしてたんだ。」
会社内で1日を過ごしたことなど何度もあるのに、ひとたび会社を離れてしまうと不思議な距離感だった。会社ではない、というだけで話すことも服も何もかもを一から考えなくてはならなくて、紫月の右半身には緊張が走った。
(…似合わない…ことはないけど、派手、だったかな…やっぱり。)
『派手なものはお姉ちゃんの方が似合うんだから、紫月はやめておきなさい』
『そうよ、紫月はほら、こういうのが似合うって。』
ふと、姉と母の声が脳内で蘇った。派手なものは似合わない。たとえそれが好きな色でも。そんな風に育ってきたから、好きな色である黄色の服なんて一着も持っていなかった。それなのになぜ買ったのかと問われれば、着てみたかったから、なのかもしれないと思う。日向と出かけるのであれば、日向に恥をかかせるような服ではだめだという思いも強くある。それと、日向の隣に立って歩いてもいい今日という日には、自分が好きだと思うものを身に着けていたかったというのも理由の一つであるようにも思える。
(…もう、行く前からうだうだ悩まないの!)
日向が紫月の仕事ぶりを事あるごとに口に出して「ここがよかった」「あれは助かった」と言ってくれること、そして後輩の指導について『俺も紫月さんに指導されたいよ』と言ってくれること、日向のくれた言葉の一つ一つが紫月の心を勇気づけてくれていた。自分の前を堂々と歩き、振り返って笑顔を見せてくれる日向の前では、なるべく自分が好きでいられる自分でいたいと思うようになった。俯いてばかりの自分ではなく、自信がなくても顔を上げることのできる自分でありたい。そんな気持ちをきゅっと握って、紫月は『よしっ』と気合を入れた。
* * *
待ち合わせ場所まで行くと、日向は先に来ていたようだった。しかし、声を掛けるのに臆するような状況で、紫月の方がおろおろしてしまっていた。なぜなら、日向は2人組の女性に声を掛けられていたからだった。咄嗟にベンチの裏にしゃがんで隠れて、様子を見つめてしまう。紫月の距離からでは何を話しているのかは聞こえないが、日向はニコリともせずにスマートフォンを見つめ、そして今度は周囲を見回している。
不意に紫月のスマートフォンが揺れた。着信は日向だった。
「もっ…もしもし!」
「電話、出れる場所にいる?どこにいる?」
「あの…えっと、日向くんの周りにいる方のお話が終わったら出て行こうかと…。」
「えっ、着いてる?どこだろう。どこ?」
「お話、終わりましたか?」
「終わるも何も、紫月さんと待ち合わせしてるのに他の人と話すとか、ないよ。紫月さんを待ってるの。…ってことで、待ち合わせしてるんで。」
紫月が見つめるその先で、日向は2人組にぺこっと頭を下げて、きょろきょろしながら歩き出した。紫月はゆっくりと立ち上がった。『日向くん』と声を出せばいいのに、喉の奥が締まってしまったかのように声が出なかった。
スタイルもよくて髪もサラサラで、綺麗な二人だった。そういう人に、声を掛けられる人なのだ、日向はという事実は何となく想像できたことではあったのに、実際にこの目で見てしまうと、本当に今日の自分は日向の隣を歩いても大丈夫なのかと不安になる。紫月なりに精一杯頑張ったけれど、それでもさっきの2人に敵いそうにない。
ふと、日向の目が紫月を捉えた。すると、途端に日向の表情がふわっと柔らかな笑顔に変わった。日向は大股でずんずんと歩いてくると、紫月の前でぴたりと止まった。
「あー良かった!やっと会えた。」
「ご、ごめんなさい、遅くなっちゃって。」
「ううん、時間ぴったりだよ、紫月さん。俺がね早く来すぎちゃったんだ。」
「あの、お話は…大丈夫でしたか?」
「話なんてないよ、あの人たちとは。紫月さんはずっとここにいたの?」
「日向くんを探して、見つけたんですけど…あの、お二人がいたので終わるまでここで隠れてようかなって…。」
「だから裾にちょっと土がついちゃってるんだね。隠れてなくてよかったのに。」
「あっ!ごめんなさい、服の汚れにも気付かなくて…。」
「ううん。全然。」
日向がすっとしゃがんで、紫月のワンピースの裾の土を払った。そして紫月を見上げると優しい笑顔のまま口を開いた。
「黄色を着てる紫月さん、初めてみたかも。似合うね、明るい色。」
「…大丈夫、かな?」
「似合ってる。会社じゃ見れないね、こんな紫月さん。」
「会社に着ていくには色が明るすぎるから…。」
「このくらいの黄色は着てる人いるよ。大丈夫大丈夫。あ、でも会社には…うん、着てこなくてもいいかも。」
「どうして?」
「えー…だって、これはデートのために紫月さんが用意してくれたんでしょ?だったらデートの時に着てほしいな。」
日向の『デート』という言葉に頬が熱くなる。もう子供ではないのに、日向の言葉や笑顔に今日はドクドクと心臓がやけにうるさい。
日向がゆっくりと立ち上がった。さっきまで視線を下に向けなければ視線が合わなかった日向の目は、今はもう紫月の上にあった。
「…日向くんの隣に並んでも大丈夫なようにって考えて来たので、…今日はよろしくお願いします。」
紫月は静かに頭を下げた。すると、クスっと笑った声が頭上から聞こえて、紫月は顔を上げた。
「こちらこそ、1日よろしくお願いします。紫月さんの好きなもの、見れるの楽しみにしてたんだ。」
会社内で1日を過ごしたことなど何度もあるのに、ひとたび会社を離れてしまうと不思議な距離感だった。会社ではない、というだけで話すことも服も何もかもを一から考えなくてはならなくて、紫月の右半身には緊張が走った。