紫陽花の憂鬱
抱きしめたい
「っ…それ…は…。」
とくんと静かに、緊張が走った。言われて嬉しい言葉だけれど、日向の声で言われるその言葉たちはもっと特別で優しく響く。
「…あの日、…初めて紫月さんの相談にのった日に言ったっきり…言わなかったのは、可愛いって思ってなかったからじゃなくて…びっくりさせたくなかったからだよ。…どういうことが『好き』ってことなのかを紫月さんは知りたがってた。だから一緒に考えたかった。」
日向の手がゆっくり離れ、今度は指を絡めずに手をそっと取られる。日向の指は紫月の手をさすった。
「…可愛いとか、好きとか…そういう紫月さんの気持ちを揺らすようなことを先に言ったら、戸惑わせちゃうなって…。でも、もう、…いい?」
「え…っと…。」
「我慢は、まだしてた方がいい?」
我慢を強いることは、日向に対してしたいことではない、だから。
「…しなくて、いいよ。我慢は、しないでほしい。私のペースに合わせてずっと待っててくれた。これ以上待ってとも、私に合わせてとも…言いたく、ないよ。」
「…じゃあ、したかったこと、もっと言ってもいい?」
「も、もちろん!」
日向の手が、きゅっと紫月の指先を握った。
「…抱きしめたい。」
たった一言、短い言葉がまっすぐに響いた。日向の目には揺らぎがないし、その目を逸らすことはできなかった。紫月は小さく頷いた。そして一歩、日向の方に歩み寄った。
「…ど、どうしてたら、いいかな、…私は。」
「んー…じゃあ、ちょっとだけ手、開いて。こんな感じ。」
日向が紫月に向かって少しだけ両手を広げた。それを真似て、紫月も少し腕を広げる。するとそのまま日向が紫月の前に立った。ふわりと背中に回った腕が優しく、それでも確かに紫月の体を抱きしめた。空を掴むしかない腕が心もとなくて、紫月も日向を真似て背中に腕を回した。
「あー…叶っちゃうんだ、これも。」
耳元で聞こえる日向の声にぐっと心拍数が上がる。何か言いたいのに日向の香りが近くて、いつの間にか後頭部に回った手が優しく頭を撫でるから動けない。
「…好きです。ずっと、好きでした。いつも一生懸命なところも、俺の隣で笑ってくれるところも可愛くて、ずっと見ていたくて…近くにいる理由が欲しくて…。ずっと、…こんな風に抱きしめたかった。…泣いてるときも、本当はこうしたかった。」
「も、もっと泣いちゃうよ…そんなに優しくされたら…。」
紫月は日向の胸に少しだけ体重をかけて顔を埋めた。
「…可愛い。…可愛いね、紫月さん。ずっと可愛かったのに、どんどん可愛くなるから…我慢がどんどんきつくなっちゃって…。」
「そんなの…日向くんはずっとかっこよくて、私みたいに崩れちゃうことがなくて、完璧で…。」
「…完璧じゃないよ、全然。完璧じゃない俺を見ても、それでも一緒にいてほしい…けど。」
「…一緒にいたい、です。…完璧じゃないところ、見せてくれるの?」
全然想像はできないけれど、きっとそんな姿を見れたらそれはそれで嬉しい。そんないつかを想像すると、自然に口角が上がった。
「…えぇ、どうしよう。かっこいいって思ってくれてるなら、そのまんまがいいかも。」
「…私だけ、いっぱいだめなところ見せてるのに?」
「…違うよ、紫月さん。俺は紫月さんのダメなところなんか一つも見てない。…可愛くて、大切にしたいところしかなかったよ。」
優しい言葉がまた一つ、紫月の体にしみこんでいく。その全てを吸い込みたくて、紫月は目を閉じたままゆっくりと呼吸をした。
「…手、繋いで、抱きしめて。…ずっとしたかったこと、叶えてくれてありがとう。」
日向の少し掠れた声が紫月の耳元で響く。胸がドクンと一度強く鳴って、紫月は日向を抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
「紫月…さん…?」
「…されたら、嬉しい。日向くんがしてくれることは、…やっぱり、何でも嬉しい。ありがとうはこちらこそだよ。」
「っ…。」
日向が声にならない声と同時に、紫月の体をぎゅっと今までよりも強く抱きしめる。そして、紫月の肩に日向の頭が乗った。
「…紫月さんさぁ…。」
「は、はいっ!」
「…そんなこと言われたら、離すのが惜しくなって腕、解いてあげられないよ…。」
「へっ…?」
声の掠れも、そこから滲む余裕のなさもそのどちらもが紫月の心拍数を上げた。そして言葉通り、日向の腕の力は弱まることはない。
「…うー…離したくない…けど…紫月さん、風邪ひかせるわけにはいかないから…離す…けど…でも…。」
「う、うん。」
紫月は腕の力をゆっくりと緩めた。それでも日向の腕の力はまだ緩まない。
「…今日、帰る前にもう1回抱きしめさせてね。今日のことが嘘じゃないって、…ちょっと、もう1回だけ。」
日向はそう言うと、腕の力を抜いた。少し紫月との間に空間ができて、紫月が見上げると日向は嬉しそうに頬を染めたまま微笑んだ。
「…この距離にいてもいいの、嬉しい。」
(…ずっとこんな笑顔で見つめられたら、こっちの身がもたないよ…)
紫月の心の声なんて知らない日向は、そっと紫月の手を取ってぎゅっと握った。
「手、やっぱり冷えちゃったね。…帰ろう。あっためようね。」
あまりに自然に繋がれた手に、緊張するよりも先に『嬉しい』が心の中で前に出た。それはそのまま、手を握り返すという動きに表れる。
「たまんないなぁ…ほんと。紫月さんは俺を喜ばせる天才だね。」
「えっ?な、何かした…?」
「ずーっとしてるよ。今日の紫月さんはずっと、いっぱい言ってるしやってる、俺の喜ぶこと。」
「…よ、良かった…。少しだけ、日向くんに追いつけて。」
今日だけではなく今までずっと、日向は紫月の心にそのまま響く言葉をたくさんくれていた。だからもし今日、日向が嬉しくなるようなことを自分が言えていたのだとしたらそれも嬉しい。あれこれとまとまらないことをたくさん考えたけれど結局、日向に笑っていてほしくて、その笑顔を向けてほしくて、それを隣で見ていてもいい人になりたかったのは紫月の方なのだから。
日向は助手席のドアを開けると、名残惜しそうに紫月の手を離した。紫月が座るとゆっくりドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
「暖房、高めに設定するけど暑くなったらすぐ言ってね。…早くあったかくしないと本当に風邪ひいちゃいそう、紫月さん。」
「だ、大丈夫だよ?」
「えーだってこんなに冷たいよ?」
日向の手が紫月の手の上に乗って、上からきゅっと握られた。初めてのことではなくても、日向の手が触れることはやはり紫月の『特別』だ。嬉しいのに恥ずかしくて、どこを見たらいいのかわからなくなって目は泳いでしまう。
「…あのっ…日向くん。」
「うん。何?」
「…え、えっと…その、私…へ、変な態度を取って誤解されたくないから先に…言う、けど…。」
「うん。」
「…手、を…握られる、のだけ…でも…その、上手く対応できるときとそうじゃない…時があって。だからその…上手に対応できなくてもそれは…されて嫌だからとかでは…ない、から…ね…?」
段々言いながら支離滅裂なことを言っているような気になって、そして顔の熱はどんどん上がっているような気がして、紫月の声はしぼんでいった。最後まで聞き終えた日向は『うん』と言って、紫月にまた優しい笑顔を向けている。
「慣れるのに時間がかかるんだよね、きっと。でも、紫月さんが嫌じゃないなら、手は繋がせてほしいし、抱きしめさせてほしいよ。いきなりぐいっとはなるべくやらないようにするけど、…平気?」
紫月は頷いた。自分からはきっと何一つ上手にはできないだろう。いつかできるようになりたいとは思うものの、今の自分では抱きしめることも手を繋ぐことも自分から日向のように自然にできるなんてはずもなかった。それでも、日向に握られた手は握り返したいし、抱きしめられたら抱きしめたい。その気持ちはあった。
「緊張してもびくってしても、手を引っ込めちゃってもね、いいんだよ紫月さん。嫌だったときは嫌だって言っていいし、びっくりしただけならそう言ってくれればいい。紫月さんにずっと頑張ってほしいわけでも無理してほしいわけでもないからね。…ただ、俺がどんどん紫月さんに近付きたくなってるだけなので。」
「…近付きたい、のは…私も、なので。…そのためには努力も無理も、ちょっとはしたい、よ?」
「っ…わ、わかりました。…わかってきた、段々。紫月さんってそういう感じね。」
「ど、どういう感じ?」
時々出る日向の敬語に紫月はクエスチョンマークばかりが浮かんでしまう。日向は目元を押さえながら、はぁーっと深くため息をついてから口を開いた。
「無自覚だろうけどね、ずっと可愛いことばっかり言ってるよ。…はぁー…もう、出発しまーす。こんなことしてたら本当に全然、今日を終わりにできなくなっちゃうよ。」
日向がそっと落とした言葉が空気に溶けて消える。車のアクセルが踏まれ、二人を乗せた車は静かに走り出した。
とくんと静かに、緊張が走った。言われて嬉しい言葉だけれど、日向の声で言われるその言葉たちはもっと特別で優しく響く。
「…あの日、…初めて紫月さんの相談にのった日に言ったっきり…言わなかったのは、可愛いって思ってなかったからじゃなくて…びっくりさせたくなかったからだよ。…どういうことが『好き』ってことなのかを紫月さんは知りたがってた。だから一緒に考えたかった。」
日向の手がゆっくり離れ、今度は指を絡めずに手をそっと取られる。日向の指は紫月の手をさすった。
「…可愛いとか、好きとか…そういう紫月さんの気持ちを揺らすようなことを先に言ったら、戸惑わせちゃうなって…。でも、もう、…いい?」
「え…っと…。」
「我慢は、まだしてた方がいい?」
我慢を強いることは、日向に対してしたいことではない、だから。
「…しなくて、いいよ。我慢は、しないでほしい。私のペースに合わせてずっと待っててくれた。これ以上待ってとも、私に合わせてとも…言いたく、ないよ。」
「…じゃあ、したかったこと、もっと言ってもいい?」
「も、もちろん!」
日向の手が、きゅっと紫月の指先を握った。
「…抱きしめたい。」
たった一言、短い言葉がまっすぐに響いた。日向の目には揺らぎがないし、その目を逸らすことはできなかった。紫月は小さく頷いた。そして一歩、日向の方に歩み寄った。
「…ど、どうしてたら、いいかな、…私は。」
「んー…じゃあ、ちょっとだけ手、開いて。こんな感じ。」
日向が紫月に向かって少しだけ両手を広げた。それを真似て、紫月も少し腕を広げる。するとそのまま日向が紫月の前に立った。ふわりと背中に回った腕が優しく、それでも確かに紫月の体を抱きしめた。空を掴むしかない腕が心もとなくて、紫月も日向を真似て背中に腕を回した。
「あー…叶っちゃうんだ、これも。」
耳元で聞こえる日向の声にぐっと心拍数が上がる。何か言いたいのに日向の香りが近くて、いつの間にか後頭部に回った手が優しく頭を撫でるから動けない。
「…好きです。ずっと、好きでした。いつも一生懸命なところも、俺の隣で笑ってくれるところも可愛くて、ずっと見ていたくて…近くにいる理由が欲しくて…。ずっと、…こんな風に抱きしめたかった。…泣いてるときも、本当はこうしたかった。」
「も、もっと泣いちゃうよ…そんなに優しくされたら…。」
紫月は日向の胸に少しだけ体重をかけて顔を埋めた。
「…可愛い。…可愛いね、紫月さん。ずっと可愛かったのに、どんどん可愛くなるから…我慢がどんどんきつくなっちゃって…。」
「そんなの…日向くんはずっとかっこよくて、私みたいに崩れちゃうことがなくて、完璧で…。」
「…完璧じゃないよ、全然。完璧じゃない俺を見ても、それでも一緒にいてほしい…けど。」
「…一緒にいたい、です。…完璧じゃないところ、見せてくれるの?」
全然想像はできないけれど、きっとそんな姿を見れたらそれはそれで嬉しい。そんないつかを想像すると、自然に口角が上がった。
「…えぇ、どうしよう。かっこいいって思ってくれてるなら、そのまんまがいいかも。」
「…私だけ、いっぱいだめなところ見せてるのに?」
「…違うよ、紫月さん。俺は紫月さんのダメなところなんか一つも見てない。…可愛くて、大切にしたいところしかなかったよ。」
優しい言葉がまた一つ、紫月の体にしみこんでいく。その全てを吸い込みたくて、紫月は目を閉じたままゆっくりと呼吸をした。
「…手、繋いで、抱きしめて。…ずっとしたかったこと、叶えてくれてありがとう。」
日向の少し掠れた声が紫月の耳元で響く。胸がドクンと一度強く鳴って、紫月は日向を抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
「紫月…さん…?」
「…されたら、嬉しい。日向くんがしてくれることは、…やっぱり、何でも嬉しい。ありがとうはこちらこそだよ。」
「っ…。」
日向が声にならない声と同時に、紫月の体をぎゅっと今までよりも強く抱きしめる。そして、紫月の肩に日向の頭が乗った。
「…紫月さんさぁ…。」
「は、はいっ!」
「…そんなこと言われたら、離すのが惜しくなって腕、解いてあげられないよ…。」
「へっ…?」
声の掠れも、そこから滲む余裕のなさもそのどちらもが紫月の心拍数を上げた。そして言葉通り、日向の腕の力は弱まることはない。
「…うー…離したくない…けど…紫月さん、風邪ひかせるわけにはいかないから…離す…けど…でも…。」
「う、うん。」
紫月は腕の力をゆっくりと緩めた。それでも日向の腕の力はまだ緩まない。
「…今日、帰る前にもう1回抱きしめさせてね。今日のことが嘘じゃないって、…ちょっと、もう1回だけ。」
日向はそう言うと、腕の力を抜いた。少し紫月との間に空間ができて、紫月が見上げると日向は嬉しそうに頬を染めたまま微笑んだ。
「…この距離にいてもいいの、嬉しい。」
(…ずっとこんな笑顔で見つめられたら、こっちの身がもたないよ…)
紫月の心の声なんて知らない日向は、そっと紫月の手を取ってぎゅっと握った。
「手、やっぱり冷えちゃったね。…帰ろう。あっためようね。」
あまりに自然に繋がれた手に、緊張するよりも先に『嬉しい』が心の中で前に出た。それはそのまま、手を握り返すという動きに表れる。
「たまんないなぁ…ほんと。紫月さんは俺を喜ばせる天才だね。」
「えっ?な、何かした…?」
「ずーっとしてるよ。今日の紫月さんはずっと、いっぱい言ってるしやってる、俺の喜ぶこと。」
「…よ、良かった…。少しだけ、日向くんに追いつけて。」
今日だけではなく今までずっと、日向は紫月の心にそのまま響く言葉をたくさんくれていた。だからもし今日、日向が嬉しくなるようなことを自分が言えていたのだとしたらそれも嬉しい。あれこれとまとまらないことをたくさん考えたけれど結局、日向に笑っていてほしくて、その笑顔を向けてほしくて、それを隣で見ていてもいい人になりたかったのは紫月の方なのだから。
日向は助手席のドアを開けると、名残惜しそうに紫月の手を離した。紫月が座るとゆっくりドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
「暖房、高めに設定するけど暑くなったらすぐ言ってね。…早くあったかくしないと本当に風邪ひいちゃいそう、紫月さん。」
「だ、大丈夫だよ?」
「えーだってこんなに冷たいよ?」
日向の手が紫月の手の上に乗って、上からきゅっと握られた。初めてのことではなくても、日向の手が触れることはやはり紫月の『特別』だ。嬉しいのに恥ずかしくて、どこを見たらいいのかわからなくなって目は泳いでしまう。
「…あのっ…日向くん。」
「うん。何?」
「…え、えっと…その、私…へ、変な態度を取って誤解されたくないから先に…言う、けど…。」
「うん。」
「…手、を…握られる、のだけ…でも…その、上手く対応できるときとそうじゃない…時があって。だからその…上手に対応できなくてもそれは…されて嫌だからとかでは…ない、から…ね…?」
段々言いながら支離滅裂なことを言っているような気になって、そして顔の熱はどんどん上がっているような気がして、紫月の声はしぼんでいった。最後まで聞き終えた日向は『うん』と言って、紫月にまた優しい笑顔を向けている。
「慣れるのに時間がかかるんだよね、きっと。でも、紫月さんが嫌じゃないなら、手は繋がせてほしいし、抱きしめさせてほしいよ。いきなりぐいっとはなるべくやらないようにするけど、…平気?」
紫月は頷いた。自分からはきっと何一つ上手にはできないだろう。いつかできるようになりたいとは思うものの、今の自分では抱きしめることも手を繋ぐことも自分から日向のように自然にできるなんてはずもなかった。それでも、日向に握られた手は握り返したいし、抱きしめられたら抱きしめたい。その気持ちはあった。
「緊張してもびくってしても、手を引っ込めちゃってもね、いいんだよ紫月さん。嫌だったときは嫌だって言っていいし、びっくりしただけならそう言ってくれればいい。紫月さんにずっと頑張ってほしいわけでも無理してほしいわけでもないからね。…ただ、俺がどんどん紫月さんに近付きたくなってるだけなので。」
「…近付きたい、のは…私も、なので。…そのためには努力も無理も、ちょっとはしたい、よ?」
「っ…わ、わかりました。…わかってきた、段々。紫月さんってそういう感じね。」
「ど、どういう感じ?」
時々出る日向の敬語に紫月はクエスチョンマークばかりが浮かんでしまう。日向は目元を押さえながら、はぁーっと深くため息をついてから口を開いた。
「無自覚だろうけどね、ずっと可愛いことばっかり言ってるよ。…はぁー…もう、出発しまーす。こんなことしてたら本当に全然、今日を終わりにできなくなっちゃうよ。」
日向がそっと落とした言葉が空気に溶けて消える。車のアクセルが踏まれ、二人を乗せた車は静かに走り出した。