紫陽花の憂鬱

今度はお家デート

『紫月さん、今日は何食べたの?』
「え、えっと…今日はビーフシチューかな。」
『うわぁいいな。…紫月さんのご飯、食べたい。』

 ぽつりと落ちた、静かな日向の声が電話越しに聞こえた。
 年末、日向は実家に数日顔を出すとのことで会うことはできず、年明けに実家から戻ってきた日向と共に初詣に行った。気が付けば1月は中旬に差し掛かっていた。

「…つ、作りに…行こうか?」
『え?』
「あ、え、えっと、その、冗談だった?」
『ううん、本音。紫月さんと一緒にご飯食べたいし、紫月さんが作ってくれたものだって食べたいし、…まぁ、俺が作ってもいいけど。』
「日向くんの作ってくれたものも、…食べて、みたい。」

 今なら日向の気持ちの一部がわかるような気がした。日向の作ってくれたものを食べたいと思う気持ちも、一緒に食事をしたいという気持ちも元を正せばただ一緒にいたいだけなのだ。

『…じゃあ、さ。』
「う…うん。」

 日向が電話越しで言い淀むのは珍しかった。紫月はそのまま言葉の続きを待つが、耳元では日向の小さな『うー…』という唸り声が聞こえるだけだった。

「…日向、くん?」
『…ほんとに、俺の家に来てくれるの?』
「う、うん。あの、迷惑じゃなければ…だけど。」
『迷惑なわけないんだけど…。…紫月さん、一応言っておくね。紫月さんを怖がらせたいとか、そういうんじゃないけど…その、怖く、ない?』
「…怖い…?」

 何のことを言われているのかわからなくて、正しい反応ができているようにはあまり思えなかった。紫月が言葉を続けられないでいると、日向がゆっくりと『あのね』と切り出した。

『…そのさ、絶対紫月さんの嫌がることはしない…んだけど。その、付き合ってすぐの男の家、…だから。…平気?』

 両想いの男女が家ですることは一つ、とまでは言わないがそういうことになる可能性は外でのデートよりも高まるということは紫月にもわかっている。ただ、日向が無理にそうしないことも同時にわかっていた。だからこそ、紫月の答えは一つだった。

「…平気もなにも、日向くんだから一緒に過ごしたいんだよ。…料理が特別上手いってわけじゃないけど、…頑張れることから頑張りたいし、あと…日向くんの料理してるところも、見たい、ので。」
『…そんなの、俺の方が見たいよ。…じゃあ、今度はお家デートだね。』

 彼氏の家に行くということをしたことがないわけではなかった。ただ、一緒に料理をするというのは初めてだ。そして、緊張もありながら素直に楽しみでワクワクしているのも初めてだった。

「じ、自分で言った…けど、緊張して失敗しちゃったらごめんなさい。」
『一緒にやるんだから、失敗しても二人のせいだよ。』
「…そ、そっか…えっと、…ありがとう。そう言ってもらえると、…うん、頑張れると思う。」
『ゆるくていいよ、ゆるくて。というか、普段だらけてる俺が頑張って掃除とかしないとだー。日にちはいつにしよっか。来週までには…うん、片付けは終わってるはずなんで、どこでもいいよ。』
「…じゃあ、土曜日に…お邪魔してもいい、かな?」
『うん。…ふふ、嬉しいなぁ、紫月さんが来てくれるの。あ、でも迎えには行くからね。』

 日向の声が弾んでいるということがわかるようになった。前ならば気付けなかった日向の気持ちが、『好き』だという言葉を貰ってからは楽しんでいること、喜んでいること、そのそれぞれが少しずつはっきりと感じられるようになったことが、嬉しかった。

「…私も、嬉しい。」

 嬉しいことが積み重なって、心の中が温かい何かで満たされる。何かに期待することも、挑戦することもできなかった自分のことを思うと、たった一つの電話でこんなにも幸せな気持ちになって、名残惜しくて通話を終わらせられない体験ができるなんて信じられないくらいだった。

* * *

「…お、お邪魔します。」
「大したものはないけど、のんびりしていってね。」

 歩くときに繋がれた手が解けた。紫月の指にはまだ日向の手の温かさが残っていて、そして玄関に一歩足を踏み入れたときにぐっと近づいてきた香りが日向の香りで、紫月の心拍数がぐっと上がった。

「紫月さん?」
「っ…は、はい!」
「大丈夫?疲れた?」
「あ、う、ううん!大丈夫!」

 紫月がそう答えると、少しだけ前にいた日向がゆっくりと紫月との距離を詰めた。そして日向の腕はそのまま優しく紫月の体を抱きしめた。

「…俺の方が全然大丈夫じゃないかも。…本当にいるんだもん、俺の家に、紫月さんが。…しかも今日は髪結ってるし。…そんな高い位置に髪結ってるの、見たことない。」

 日向がこんなにぼそぼそと話すのは珍しかった。耳元で聞こえるから聞き取れるけれど、もっと距離があったら聞き取れなかったかもしれない。

「ご飯に髪入っちゃったらよくないなって思って結んだけど…その、気合入りすぎ、かな?」
「…そんなことないよ。…ただ、可愛すぎるだけ。」
「へ、へっ!?」
「駅で手、振り返してれたのもね、手、すぐ握り返してくれたのも…可愛くて…家まで我慢したけどとりあえず1回、抱きしめます。…事前に言いたかったけど、本当にだめかも…。俺に嫌なことされたらそれは嫌って絶対言ってね、紫月さん。」

 声が小さくて、どこか掠れていて余裕のなさが紫月にも見える。こんな日向は本当に初めてだった。紫月は日向の背に腕を回して抱き返した。先んじて何かはできなくても、してくれたことを同じように返すことはできる。

「…嫌じゃないよ。…今日、楽しみだったの。…日向くんと一緒に過ごせるの、いつも楽しみにしてるよ。…あの、でも、その、抱きしめるとかそういう…その、距離が近いことも、…事前に言われなくても、だ、大丈夫だよ。抱きしめられたら、抱きしめ返すのは…できるから。」

 紫月がそう言い終えると、日向の深いため息が聞こえた。そしてゆっくりと紫月の体を抱きしめる腕に力が入った。

「…とりあえずあの、今は離すけど…ご飯食べたらちょっと…その、くっついていたい…んだけど…。」

 しどろもどろな言い方の日向も初めて見る。まるでいつもの自分を見ているような気持ちになって、紫月はくすくすと笑った。

「紫月さん…?」
「…日向くんが私みたいに話すのが珍しくて…。日向くんもそういう風になることがあるんだね。…ちょっと安心しちゃったな。」
「安心?」
「うん。…いつもと違う、『私みたいな』日向くんを見ると、…安心するよ。日向くんも迷ったり、困りながら話すことがあるんだなってわかる、から…。」

 日向の腕が緩まり、日向の額が紫月のものに重なった。近い距離に紫月は思わず目を瞑った。

「…迷うよ、紫月さんのことはいつだって迷ってる。…でも、紫月さんに聞くしかないことだなとも思ってるよ。だから…紫月さん、目、開けて?」

 重なった額が離れたのを感じ、紫月は目を開けた。見上げた先にはほんのりと頬を染めて、視線がゆらゆらと揺れる日向がいた。

「…俺は多分、今日はすごく紫月さんに近付いちゃうと思う。こんな距離にいてよくて、外じゃないから人目も気にしなくていい。…ってなると、くっつきたいです。男心としては。」
「…ゆ、ゆっくりだったらあの、だ、大丈夫…だと思うので…きょ、今日はその、修行するつもりで来たから、…教えてください。どうやったらその、日向くんの恋人っぽく振舞えるのかとか、…してほしいこととか。」

 紫月がそう言うと日向は「あー」と言いながら両手で顔を覆った。そして力なく、「…今日ずっとこんな感じなの、紫月さん」と呟いた。
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