紫陽花の憂鬱
意識しているのは
* * *
「…エプロン…。」
「ん?あ、ご、ごめんなさい、ちゃんと聞き取れなくて。何か言った?」
「い、言ってないよ、大丈夫。俺、焼きそば担当します!」
「本当に私がやらなくていいの?…その、今日はご飯を作るっていうのが私の役割かなって…。」
紫月は家から持参したエプロンを着て、袖をまくった。一緒に買い出しに行きながら話す中で昼は焼きそば、夜はロールキャベツにすることになり、それに合わせて食材を買った。てっきり焼きそばを担当するものだと思っていた紫月は、自分の仕事を確認したくて日向に聞くことにした。
「焼きそばはそんなに難しくないじゃん?だから失敗しないで食べてもらえるかなって。」
「じゃ、じゃああの、夜の分は残しながら少し別のおかずを作っても大丈夫…?」
「え、そんな即興で何か作れるの?」
「えっと…冷蔵庫は見ても…平気?」
「うん、全然大丈夫。っていってもそんなに大したものはないと思うよ。卵とか牛乳とかはあったと思うけど。」
紫月は冷蔵庫をゆっくりと開けた。さっき買って来た食材以外には日向が言った通り卵と牛乳、ビールにチーズ類のおつまみが少し入っている程度だった。
「あの、オムそばはどうかな?日向くんに麺をお願いして、私はオムレツを作ったらその、私にもやれることがあるかなって思うんだけど…オムレツは好き?」
「っ…す、好き、です。」
「良かった…。じゃあえっと、オムレツを担当します。」
何もやることがないなんてことにならずに済んで、紫月は安堵した。冷蔵庫から卵と牛乳を取り出し、手を洗って、エプロンのポケットに入れていたタオルで拭いて水気を落とす。
「キャベツ、千切りとかの方が食べやすいかな?一口大でも大丈夫?」
「え、や、待って待って。紫月さん全部やっちゃってるじゃん。…でも絶対切るのも紫月さんの方が上手だよね…千切りって最初に出てくるんだもん…。」
「あっ、いやその、あのトトトみたいなスピードでは無理だよ、私も。」
「スピードじゃなくてそもそも千切り自体ができないかも、俺。」
いつの間にか日向の仕事を奪ってしまっていたらしい紫月は慌てた。日向の声のトーンを落としたかったわけでも仕事を奪いたかったわけでもない。
「えっとじゃあ、切るのは私がやるので日向くんは卵を割って、牛乳を少しだけ入れて混ぜてもらってもいい?それを終わったら交換してもらえると助かる。」
「…うん、わかった。なんか新鮮。紫月さんから指示を受けるのって職場じゃできないから。…いいなぁ、紫月さんが面倒みてる後輩たち。こんな風に教えてもらえるんだ。」
「わ、わかりにくかった?大丈夫?」
紫月がそう問うと、日向はほんのりと染まった頬のまま微笑んだ。
「わかりやすいし手際いいし、…また紫月さんのすごいところを一つ知っちゃった。」
そう言うと、日向はボウルのふちに卵を当てて、卵を2つ割った。そしてカシャカシャとボウルの中で卵が混ぜられる音がする。紫月はその音を聞きながら、キャベツをざくざくと切っていった。
* * *
「…ふわふわなんだけどオムレツ…え、すごいね、なにこれ。」
「ふわふわにできてよかった。美味しいね。」
久しぶりに作ったオムそばはソースの味も程よくて美味しかった。少し添えた紅しょうがもなかなかきいていて、口の中が味的にも食感的にも飽きない。
「それにしても…紫月さんの手際の良さ。」
「え?」
「…仕事中もかっこいいのに、ご飯作っててもかっこいいんだね。」
まっすぐな日向の目が紫月の胸をどくんと鳴らせる。箸を落としかけそうになって、寸でのところで指先に力を戻した。
「で、できてたかな、ちゃんと。それならいいんだけど…。」
「…ほんと、美味しい。あとね、一緒に作れたのが楽しいね。指示くれてありがとう。俺でも役に立てました。」
「そ、そんなの…こっちこそだよ。その、誰かと一緒に作るのって…楽しい…。いつもより美味しく感じる。」
そう言って紫月にしては大きな一口でもぐもぐと咀嚼する。いつもよりも食べるペースは早いし、食べる量も多い気がするけれど箸は勝手に進む。
するとゆっくりと日向の手が紫月の口元に伸びてきた。スッと紫月の顎にかかった手に紫月は緊張して一瞬で動けなくなった。そのまま日向の親指がそっと紫月の唇の端に触れた。
「ソース、ついてた。…そんなにいっぱい美味しそうに食べる紫月さん見れるお家デート、開始1時間でもう…お腹いっぱいだよ。」
「っ…ご、ごめんなさい!い、急いで食べすぎたね…!」
何でもないことのように日向は自分の親指についたソースをぺろりと舐め、それを見てしまった紫月は耳まで赤く染まった。
* * *
食べ終わって、食器洗いはやると日向が譲らなかった。そのため、紫月はキッチン周りを拭こうとキッチンに立っていた。ふと日向の方を向くと、長袖の裾が落ちてきて濡れてしまいそうなことに気付く。気付いてしまったら、手は自然に伸びていた。
「!?紫月さん?」
「袖、濡れちゃいそうだからまくるね?」
よく見ると、紫月の側から見ていた右だけではなく、左の方も落ちかけていた。右の袖をくるくると折りながらまくって、紫月はそのまま左に移動して左も同じようにまくる。
「っ…紫月さんさ…。」
「は、はいっ…!」
「さっきまで顔赤かったのに、もう平常運転に戻ってるの?」
「へっ…?」
そう問われて、おずおずと日向の顔を見上げると、今度は日向の耳が赤く染まっていた。少し鼻を手でこすりながら、日向は紫月の方を見ずに手元の皿の泡を流しながら口を開いた。
「…そんな躊躇なく来てくれるなんてさ…思わないじゃん。」
「い、いきなりごめんなさい!」
「…じゃなくて。…普通にっていうか、普通以上に嬉しいんだけど…紫月さんから距離詰めてくれるって思ってないから、…はぁー…もう。キッチンのこの距離もさ、意識してんの俺だけってくらいぐいぐいくるから…だめだ…本当に…ボロが出まくってる…。」
流し終わった日向が、皿を立てかけてタオルで手を拭いた。そして水で冷たくなった日向の手が紫月の手をぎゅっと握って引く。
「日向くん、あの…。」
「…一旦落ち着きたいから、慣れるためにちょっとこっち来て座って?」
「は、はいっ…!」
手を引かれるまま、リビングに戻ってくる。日向は手を離してしゃがむと、カーペットの上にある四角いクッションをポンポンと叩いた。
「ここ、座ってください。」
「はいっ!」
紫月が座るのを確認した日向は紫月の背後に回って、そのまま後ろからぎゅっと紫月を抱きしめた。
「!?日向くん…!?」
「…ダメだって、もう。…紫月さんが家にいるってことに慣れたいから、ちょっとこのままでいてもらってもいい?」
紫月はこくんと頷いた。日向の手は冷たかったのに、背中から感じる体温は温かかった。体の前に回された日向の腕に、紫月は下からそっと手を添えてきゅっと力を込めた。
「…そういうのが…はぁー…手、そのままでいてね、紫月さん。」
「…だめなこと、しちゃってる?」
「…一つもしてないよ。…紫月さんが可愛くてたまらなくて、…はは、笑えないくらい心臓がうるさいかも。背中越しだと伝わらないかな?」
「…あったかいことは、わかる、よ?」
「…うん。もうちょっとマシになったら、正面から抱きしめられるんだけど今はちょっと…顔がまずすぎるからこのまま、ね。」
「…エプロン…。」
「ん?あ、ご、ごめんなさい、ちゃんと聞き取れなくて。何か言った?」
「い、言ってないよ、大丈夫。俺、焼きそば担当します!」
「本当に私がやらなくていいの?…その、今日はご飯を作るっていうのが私の役割かなって…。」
紫月は家から持参したエプロンを着て、袖をまくった。一緒に買い出しに行きながら話す中で昼は焼きそば、夜はロールキャベツにすることになり、それに合わせて食材を買った。てっきり焼きそばを担当するものだと思っていた紫月は、自分の仕事を確認したくて日向に聞くことにした。
「焼きそばはそんなに難しくないじゃん?だから失敗しないで食べてもらえるかなって。」
「じゃ、じゃああの、夜の分は残しながら少し別のおかずを作っても大丈夫…?」
「え、そんな即興で何か作れるの?」
「えっと…冷蔵庫は見ても…平気?」
「うん、全然大丈夫。っていってもそんなに大したものはないと思うよ。卵とか牛乳とかはあったと思うけど。」
紫月は冷蔵庫をゆっくりと開けた。さっき買って来た食材以外には日向が言った通り卵と牛乳、ビールにチーズ類のおつまみが少し入っている程度だった。
「あの、オムそばはどうかな?日向くんに麺をお願いして、私はオムレツを作ったらその、私にもやれることがあるかなって思うんだけど…オムレツは好き?」
「っ…す、好き、です。」
「良かった…。じゃあえっと、オムレツを担当します。」
何もやることがないなんてことにならずに済んで、紫月は安堵した。冷蔵庫から卵と牛乳を取り出し、手を洗って、エプロンのポケットに入れていたタオルで拭いて水気を落とす。
「キャベツ、千切りとかの方が食べやすいかな?一口大でも大丈夫?」
「え、や、待って待って。紫月さん全部やっちゃってるじゃん。…でも絶対切るのも紫月さんの方が上手だよね…千切りって最初に出てくるんだもん…。」
「あっ、いやその、あのトトトみたいなスピードでは無理だよ、私も。」
「スピードじゃなくてそもそも千切り自体ができないかも、俺。」
いつの間にか日向の仕事を奪ってしまっていたらしい紫月は慌てた。日向の声のトーンを落としたかったわけでも仕事を奪いたかったわけでもない。
「えっとじゃあ、切るのは私がやるので日向くんは卵を割って、牛乳を少しだけ入れて混ぜてもらってもいい?それを終わったら交換してもらえると助かる。」
「…うん、わかった。なんか新鮮。紫月さんから指示を受けるのって職場じゃできないから。…いいなぁ、紫月さんが面倒みてる後輩たち。こんな風に教えてもらえるんだ。」
「わ、わかりにくかった?大丈夫?」
紫月がそう問うと、日向はほんのりと染まった頬のまま微笑んだ。
「わかりやすいし手際いいし、…また紫月さんのすごいところを一つ知っちゃった。」
そう言うと、日向はボウルのふちに卵を当てて、卵を2つ割った。そしてカシャカシャとボウルの中で卵が混ぜられる音がする。紫月はその音を聞きながら、キャベツをざくざくと切っていった。
* * *
「…ふわふわなんだけどオムレツ…え、すごいね、なにこれ。」
「ふわふわにできてよかった。美味しいね。」
久しぶりに作ったオムそばはソースの味も程よくて美味しかった。少し添えた紅しょうがもなかなかきいていて、口の中が味的にも食感的にも飽きない。
「それにしても…紫月さんの手際の良さ。」
「え?」
「…仕事中もかっこいいのに、ご飯作っててもかっこいいんだね。」
まっすぐな日向の目が紫月の胸をどくんと鳴らせる。箸を落としかけそうになって、寸でのところで指先に力を戻した。
「で、できてたかな、ちゃんと。それならいいんだけど…。」
「…ほんと、美味しい。あとね、一緒に作れたのが楽しいね。指示くれてありがとう。俺でも役に立てました。」
「そ、そんなの…こっちこそだよ。その、誰かと一緒に作るのって…楽しい…。いつもより美味しく感じる。」
そう言って紫月にしては大きな一口でもぐもぐと咀嚼する。いつもよりも食べるペースは早いし、食べる量も多い気がするけれど箸は勝手に進む。
するとゆっくりと日向の手が紫月の口元に伸びてきた。スッと紫月の顎にかかった手に紫月は緊張して一瞬で動けなくなった。そのまま日向の親指がそっと紫月の唇の端に触れた。
「ソース、ついてた。…そんなにいっぱい美味しそうに食べる紫月さん見れるお家デート、開始1時間でもう…お腹いっぱいだよ。」
「っ…ご、ごめんなさい!い、急いで食べすぎたね…!」
何でもないことのように日向は自分の親指についたソースをぺろりと舐め、それを見てしまった紫月は耳まで赤く染まった。
* * *
食べ終わって、食器洗いはやると日向が譲らなかった。そのため、紫月はキッチン周りを拭こうとキッチンに立っていた。ふと日向の方を向くと、長袖の裾が落ちてきて濡れてしまいそうなことに気付く。気付いてしまったら、手は自然に伸びていた。
「!?紫月さん?」
「袖、濡れちゃいそうだからまくるね?」
よく見ると、紫月の側から見ていた右だけではなく、左の方も落ちかけていた。右の袖をくるくると折りながらまくって、紫月はそのまま左に移動して左も同じようにまくる。
「っ…紫月さんさ…。」
「は、はいっ…!」
「さっきまで顔赤かったのに、もう平常運転に戻ってるの?」
「へっ…?」
そう問われて、おずおずと日向の顔を見上げると、今度は日向の耳が赤く染まっていた。少し鼻を手でこすりながら、日向は紫月の方を見ずに手元の皿の泡を流しながら口を開いた。
「…そんな躊躇なく来てくれるなんてさ…思わないじゃん。」
「い、いきなりごめんなさい!」
「…じゃなくて。…普通にっていうか、普通以上に嬉しいんだけど…紫月さんから距離詰めてくれるって思ってないから、…はぁー…もう。キッチンのこの距離もさ、意識してんの俺だけってくらいぐいぐいくるから…だめだ…本当に…ボロが出まくってる…。」
流し終わった日向が、皿を立てかけてタオルで手を拭いた。そして水で冷たくなった日向の手が紫月の手をぎゅっと握って引く。
「日向くん、あの…。」
「…一旦落ち着きたいから、慣れるためにちょっとこっち来て座って?」
「は、はいっ…!」
手を引かれるまま、リビングに戻ってくる。日向は手を離してしゃがむと、カーペットの上にある四角いクッションをポンポンと叩いた。
「ここ、座ってください。」
「はいっ!」
紫月が座るのを確認した日向は紫月の背後に回って、そのまま後ろからぎゅっと紫月を抱きしめた。
「!?日向くん…!?」
「…ダメだって、もう。…紫月さんが家にいるってことに慣れたいから、ちょっとこのままでいてもらってもいい?」
紫月はこくんと頷いた。日向の手は冷たかったのに、背中から感じる体温は温かかった。体の前に回された日向の腕に、紫月は下からそっと手を添えてきゅっと力を込めた。
「…そういうのが…はぁー…手、そのままでいてね、紫月さん。」
「…だめなこと、しちゃってる?」
「…一つもしてないよ。…紫月さんが可愛くてたまらなくて、…はは、笑えないくらい心臓がうるさいかも。背中越しだと伝わらないかな?」
「…あったかいことは、わかる、よ?」
「…うん。もうちょっとマシになったら、正面から抱きしめられるんだけど今はちょっと…顔がまずすぎるからこのまま、ね。」