紫陽花の憂鬱
『可愛い』の大渋滞
「…余裕、なくてごめんね。」
「え?」
「…っていうか、今日はずっと、紫月さんの方が余裕があるように見える。最初は緊張してたみたいだけど、ご飯作り始めたら距離近くても全然気にしてないっていうか…。」
日向の腕は緩まない。紫月も日向の腕に添えた手を離してはいない。耳元で聞こえる静かな声や距離に緊張しないわけではなかった。それでもその緊張を超える、違う気持ちの方が勝っている。
「…嬉しいんだよ、ずっと。」
「嬉しい?」
紫月は頷いた。自分じゃ不釣り合いだと思う気持ちがなくなったわけでも、急に自信がついたわけでも何でもない。不安もあるし、余計なことを考えすぎることだってある。それでも、今こうやって日向の腕の中にいてもいい時間を覚えていたい。そんな思いがいつもある。
「…私ね、あんまりその…こういう、抱きしめられるとかしてもらえなかったから。…嬉しいんだ、すごく。緊張もするし、ドキドキもして…その、上手に目が合わせられない…時もあるんだけど。でも、そういう気持ちよりもずっと、嬉しいって気持ちがいっぱいある感じがするの。」
紫月が呟くようにそう落とすと、日向の腕がぎゅうっと強まった。
「…このくらい強くしても、痛くない?」
「痛くないよ。…ふふ、嬉しいな。」
「っ…はぁー…紫月さん、そんなこと言うと、俺は四六時中抱きしめちゃうよ。」
「…え、えっと…ご飯作るときはそれだと困っちゃうけど、それ以外は…嬉しい、です。」
「…甘すぎる…。」
「え?」
「紫月さん、ちゃんとダメなことはダメって言わないとダメだからね。」
「だ、だめ?」
だめという言葉を重ねられて少し困惑する。だめなことは、日向に対して特にない。むしろ、日向がしたいことをしたいと思うし、どういうことをしたいと思うのかを知りたいとすら思う。
「俺のやりたい放題になっちゃうよ?」
「い、いいよ。あの、それも知りたいこと、だから。」
「知りたいこと?」
「そう!…っ!ご、ごめんなさい!いきなり振り返ったら危なかったね…!」
くるっと振り返った先にあった思いのほか近かった日向の顔に驚いて、紫月は振り返ったときと同じスピードで顔の位置を戻した。
「…うん、危ないよ。…もっと近付きたくなるからね、俺が。だからまだ、振り返らないでいてね。」
「…えっと、わ、私はこうしてるだけでいいのかな…他には何をしたら…。」
「…よしっ、一旦離れます。俺の家でできることって本当に少なくてさ。ゲームか…あとは映画観るとかなんだけど…やりたいの、ある?」
スッと立ち上がった日向を見上げながら、紫月はうーんと唸る。ゲームはあまり得意ではないし、かといって映画も詳しくはない。しかし、どちらをやってみたいかと考え、心が傾いた方を口にした。
「…下手、だとは思うんだけど、その…ゲームってどういうものかな?あんまりやったことはないんだけど、見てはみたいっていうか…。」
「俺もすっごいハマって何かやってるってわけじゃなくて浅く広くって感じだよ?運要素強いやつなら上手さ関係ないし、なんか一緒にやってみよっか。」
「見るだけでも全然…!」
「一緒にやろうよ。下手でも何でも、紫月さんなら可愛いよ。」
にこっと微笑まれると弱かった。それに日向の言葉は優しかったのに加えてどんどん別の響きをもって聞こえるようになってしまった。
(…『かっこいい』はそのまま受け取れても、『可愛い』は言われ慣れてないから一回戸惑っちゃうな…。)
『可愛い』のは姉で、自分は姉とは違い、可愛い顔でもなければ可愛い仕草をすることもできなかったし、可愛いものを持っても着ても似合わない。『可愛い』は自分からは遠い言葉だった。だから憧れたし、可愛いものはより一層好きだと思うようになっていた。それでも積極的に身近に置けなかったのは『似合わない』からだ。それなのに、日向は事あるごとに紫月に『可愛い』と言う。嬉しいのに、それは上手に受け取れない。
「…紫月さん?」
「あっ…えっと…。」
「ん?何か引っかかった?」
立ち上がった日向がすとんと紫月の正面にあぐらをかいて座った。両手を優しく包まれると力が抜けて、ゆっくりと息ができた。
「…あの、微妙な反応になっちゃって、…ごめんなさい。」
「微妙な反応?」
紫月は頷いた。『可愛い』と言われると嬉しいのに、『ありがとう』『嬉しい』の言葉はすぐ出てこない。変な間を作ってしまって、言葉に詰まるのだ。
「…可愛くなりたい…って思うのに、そんなに努力は出来てなくて、だからその…日向くんのくれる可愛いって言葉を、上手に飲み込めなくて…。」
「…これ以上可愛くなるの?」
「え?」
「…ちょっと待ってね、それは。もう現状、結構いってるからね、可愛さ。可愛くなるの、止めないけど…いきなりいっぱいはちょっと…うん、ゆっくりでいいよ紫月さん。」
「え…え…!?」
日向の頬と耳がまた染まる。そのままの顔を紫月に向けたまま、日向は口を開いた。
「努力してないとも思わないし、努力しててもしてなくても紫月さんはそのまんまで可愛いです。はい、可愛い紫月さんは俺とゲームします。はい、立ってー。」
手を引かれて立ち上がり、日向に引かれるままにソファに移動する。コントローラーを持たされて、肩を押されてソファに座ると、日向は紫月のすぐ隣に座った。
「紫月さん、コントローラーの向きはこうね。ここに指かけて?」
「こ、こう?」
「そうそう。紫月さん、物覚えいいし多分コツ掴んだらすぐ上手くなるよ。何やろっか。」
* * *
(…『可愛い』の大渋滞。)
何とかゲームをする流れにしてごまかすことに成功したと思いたかった。そのくらいには余裕のない自分に苦笑しかけてぐっと飲み込み、日向はコントローラーを強く握った。
抱きしめるだけで我慢した自分を盛大に褒めつつ、紫月に操作方法を教えながら平常心を取り戻そうと試みる。この空間にいる紫月との距離感というものにも少しずつ慣れてきた部分もある。2回抱きしめてその都度少しずつ、『居る』ということが実感を伴ってわかってきた。ただ、そうやってゆっくり自分にわからせている中で、紫月が自分の予想しなかった方向からぐっと距離を詰めてくるものだから何度も感情を狂わせられている。告白する前の自分が今思えばあり得ないほどにスマートだったとすら思える。言葉も飲み込み、ほどよく逃がし、距離を詰めすぎずにかといって離れずいた自分が別人に思えるくらいには本当に余裕という余裕は全てどこかに吹っ飛んでしまっていた。
(…今日はどこまで、近付いていいんだろう。)
彼女から触れられることは全て嬉しくて、抱きしめたことが嬉しいと返されることで歯止めがきかなくなりそうで、これ以上考えたらまた脳が沸騰しそうだと踏んで、日向は目の前のゲームに集中することにした。
「え?」
「…っていうか、今日はずっと、紫月さんの方が余裕があるように見える。最初は緊張してたみたいだけど、ご飯作り始めたら距離近くても全然気にしてないっていうか…。」
日向の腕は緩まない。紫月も日向の腕に添えた手を離してはいない。耳元で聞こえる静かな声や距離に緊張しないわけではなかった。それでもその緊張を超える、違う気持ちの方が勝っている。
「…嬉しいんだよ、ずっと。」
「嬉しい?」
紫月は頷いた。自分じゃ不釣り合いだと思う気持ちがなくなったわけでも、急に自信がついたわけでも何でもない。不安もあるし、余計なことを考えすぎることだってある。それでも、今こうやって日向の腕の中にいてもいい時間を覚えていたい。そんな思いがいつもある。
「…私ね、あんまりその…こういう、抱きしめられるとかしてもらえなかったから。…嬉しいんだ、すごく。緊張もするし、ドキドキもして…その、上手に目が合わせられない…時もあるんだけど。でも、そういう気持ちよりもずっと、嬉しいって気持ちがいっぱいある感じがするの。」
紫月が呟くようにそう落とすと、日向の腕がぎゅうっと強まった。
「…このくらい強くしても、痛くない?」
「痛くないよ。…ふふ、嬉しいな。」
「っ…はぁー…紫月さん、そんなこと言うと、俺は四六時中抱きしめちゃうよ。」
「…え、えっと…ご飯作るときはそれだと困っちゃうけど、それ以外は…嬉しい、です。」
「…甘すぎる…。」
「え?」
「紫月さん、ちゃんとダメなことはダメって言わないとダメだからね。」
「だ、だめ?」
だめという言葉を重ねられて少し困惑する。だめなことは、日向に対して特にない。むしろ、日向がしたいことをしたいと思うし、どういうことをしたいと思うのかを知りたいとすら思う。
「俺のやりたい放題になっちゃうよ?」
「い、いいよ。あの、それも知りたいこと、だから。」
「知りたいこと?」
「そう!…っ!ご、ごめんなさい!いきなり振り返ったら危なかったね…!」
くるっと振り返った先にあった思いのほか近かった日向の顔に驚いて、紫月は振り返ったときと同じスピードで顔の位置を戻した。
「…うん、危ないよ。…もっと近付きたくなるからね、俺が。だからまだ、振り返らないでいてね。」
「…えっと、わ、私はこうしてるだけでいいのかな…他には何をしたら…。」
「…よしっ、一旦離れます。俺の家でできることって本当に少なくてさ。ゲームか…あとは映画観るとかなんだけど…やりたいの、ある?」
スッと立ち上がった日向を見上げながら、紫月はうーんと唸る。ゲームはあまり得意ではないし、かといって映画も詳しくはない。しかし、どちらをやってみたいかと考え、心が傾いた方を口にした。
「…下手、だとは思うんだけど、その…ゲームってどういうものかな?あんまりやったことはないんだけど、見てはみたいっていうか…。」
「俺もすっごいハマって何かやってるってわけじゃなくて浅く広くって感じだよ?運要素強いやつなら上手さ関係ないし、なんか一緒にやってみよっか。」
「見るだけでも全然…!」
「一緒にやろうよ。下手でも何でも、紫月さんなら可愛いよ。」
にこっと微笑まれると弱かった。それに日向の言葉は優しかったのに加えてどんどん別の響きをもって聞こえるようになってしまった。
(…『かっこいい』はそのまま受け取れても、『可愛い』は言われ慣れてないから一回戸惑っちゃうな…。)
『可愛い』のは姉で、自分は姉とは違い、可愛い顔でもなければ可愛い仕草をすることもできなかったし、可愛いものを持っても着ても似合わない。『可愛い』は自分からは遠い言葉だった。だから憧れたし、可愛いものはより一層好きだと思うようになっていた。それでも積極的に身近に置けなかったのは『似合わない』からだ。それなのに、日向は事あるごとに紫月に『可愛い』と言う。嬉しいのに、それは上手に受け取れない。
「…紫月さん?」
「あっ…えっと…。」
「ん?何か引っかかった?」
立ち上がった日向がすとんと紫月の正面にあぐらをかいて座った。両手を優しく包まれると力が抜けて、ゆっくりと息ができた。
「…あの、微妙な反応になっちゃって、…ごめんなさい。」
「微妙な反応?」
紫月は頷いた。『可愛い』と言われると嬉しいのに、『ありがとう』『嬉しい』の言葉はすぐ出てこない。変な間を作ってしまって、言葉に詰まるのだ。
「…可愛くなりたい…って思うのに、そんなに努力は出来てなくて、だからその…日向くんのくれる可愛いって言葉を、上手に飲み込めなくて…。」
「…これ以上可愛くなるの?」
「え?」
「…ちょっと待ってね、それは。もう現状、結構いってるからね、可愛さ。可愛くなるの、止めないけど…いきなりいっぱいはちょっと…うん、ゆっくりでいいよ紫月さん。」
「え…え…!?」
日向の頬と耳がまた染まる。そのままの顔を紫月に向けたまま、日向は口を開いた。
「努力してないとも思わないし、努力しててもしてなくても紫月さんはそのまんまで可愛いです。はい、可愛い紫月さんは俺とゲームします。はい、立ってー。」
手を引かれて立ち上がり、日向に引かれるままにソファに移動する。コントローラーを持たされて、肩を押されてソファに座ると、日向は紫月のすぐ隣に座った。
「紫月さん、コントローラーの向きはこうね。ここに指かけて?」
「こ、こう?」
「そうそう。紫月さん、物覚えいいし多分コツ掴んだらすぐ上手くなるよ。何やろっか。」
* * *
(…『可愛い』の大渋滞。)
何とかゲームをする流れにしてごまかすことに成功したと思いたかった。そのくらいには余裕のない自分に苦笑しかけてぐっと飲み込み、日向はコントローラーを強く握った。
抱きしめるだけで我慢した自分を盛大に褒めつつ、紫月に操作方法を教えながら平常心を取り戻そうと試みる。この空間にいる紫月との距離感というものにも少しずつ慣れてきた部分もある。2回抱きしめてその都度少しずつ、『居る』ということが実感を伴ってわかってきた。ただ、そうやってゆっくり自分にわからせている中で、紫月が自分の予想しなかった方向からぐっと距離を詰めてくるものだから何度も感情を狂わせられている。告白する前の自分が今思えばあり得ないほどにスマートだったとすら思える。言葉も飲み込み、ほどよく逃がし、距離を詰めすぎずにかといって離れずいた自分が別人に思えるくらいには本当に余裕という余裕は全てどこかに吹っ飛んでしまっていた。
(…今日はどこまで、近付いていいんだろう。)
彼女から触れられることは全て嬉しくて、抱きしめたことが嬉しいと返されることで歯止めがきかなくなりそうで、これ以上考えたらまた脳が沸騰しそうだと踏んで、日向は目の前のゲームに集中することにした。