紫陽花の憂鬱
居てほしい
* * *
ゲームは思いのほか紫月も奮闘し、1時間を過ぎた頃からそれなりに互角に遊べるようになった。ずっと自分の頬が上がっていることに気付くと、それもまた嬉しくて時折ふっと力が抜けたように微笑んでしまう。そんなことを繰り返しながら一緒に夕飯を作り、それを食べ終え、何となく流れで気になっていた映画を観ていた。
(…今日が、終わっちゃう。)
最初で最後というわけではきっとない。そうは思えるのに、今日一日が楽しかったことと、知らなかった日向の一面を知ることができたことの新鮮さと嬉しさでずるずると帰らずにいる。長居しすぎることがよくないことだという常識はもっていても、名残惜しさが『そろそろ帰ります』を言わせないようにしていた。
(…映画も、あと20分、あるかないか…かな。)
112分の映画だったはずだ。内容よりも、そんなことばかり覚えている。普段は腹八分目くらいまでしか食べないのに、今日はずっと満腹を感じるところまで食べているせいで、最初は眠くなかったのに段々と眠くなってきた。隣から感じる日向の温かさもあって、いよいよ瞼が落ちてきてしまいそうだった。
(…人様のお家で寝るなんて、…失礼すぎる…。)
* * *
トン…と静かに、左腕に紫月の体が触れた。横目で盗み見ていただけでも、眠そうだということは何となく感じていた。しかし本当に眠ってしまうとは思わなくて、そして左半身に緊張が走って日向は息を飲んだ。
(…もしかして、今日もあんまり眠れなかったのかな。)
初めてのデートの時も同じことがあった。眠そうな紫月に仮眠を提案し、紫月はそのまままっすぐ頭を静かに落として目を閉じたが、その体が傾いで肩を貸すことになった。あの後目覚めた紫月の慌てようは今でも時折思い出す。あんなに長く紫月の体が触れていたのは初めてで、嬉しくてもその嬉しさは紫月に悟られるわけにもいかず、努めて冷静に見えるようにしなくてはと、そんな気持ちもあった。
今はあの時とは少し違う。あの時よりももっと、紫月のことを愛おしく思うし、触れていたいとも思う。眠いのなら、帰らずにここで眠っていってもいいんだよ、と喉元までその言葉が出かかるくらいに本音は、帰ってほしくなかった。
(…初めての家デートで帰ってほしくないとか…どんだけ余裕ないのって話なんだけど。)
触れてはいたいけれど、全てに触れたいとまでは思わない。ただ、その寝顔をもっと近くで見せてほしくて、朝目覚めた時に隣にいてほしい。
日向はそっと、紫月の肩に触れてゆっくりと自分の方に引き寄せた。紫月の体重がさっきよりも一層自分にかかったことを感じると、肩に触れていた手を今度は紫月の頭に回した。そして自分の肩に頭が乗るように引き寄せる。何の抵抗もなく、紫月の頭は日向の肩に下りてきた。
「…ゆっくり寝てていいよ、紫月さん。」
ずっと頑張っていた人だから、休んでほしいという表向きの理由と、理由さえ用意すればこの時間を延長することができるかもしれないという本音をいったりきたりしながら、日向も静かに目を閉じた。
* * *
「ん…。」
目を開けてもすぐには視界がはっきりしなかった。しかしそんな自分に気付くと急激に血の気が引き、とんでもないことをしてしまったことに気付く。
紫月はパッと顔を上げて、日向の方を見つめるとすぐに目は合った。
「…おはよう、紫月さん。」
「っ…あの、ごめんなさい!人様のお家で寝ちゃうなんて私…本当に失礼でっ…!」
「いっぱい頑張ってたから、紫月さん。疲れちゃったんだよ。」
「でもっ…こ、こんな遅くまで…あっ!私どのくらい寝て…。」
「1時間くらいかな。熟睡だったよ。」
「ごめんなさいっ!」
紫月は深く頭を下げた。すると、いつの間にか体の向きを紫月の方に向けた日向の腕が紫月の背に回った。少しあった距離が、日向が少し身を乗り出しながら抱きしめたことでゼロになった。
「…全然、ごめんなさいじゃないよ。俺の横で眠ってくれるんだって、嬉しくなってただけだから。そんなに謝らないで。謝ってもらうようなこと、本当にないよ。」
「…わ、私ずっと、日向くんにもたれてた…の…?」
日向の腕の力が強まった。紫月も、日向の腕の隙間から自分の腕を伸ばし、日向の背に回した。少しだけ力を込めると日向の髪が紫月の頬に触れた。
「…寝ちゃってコテンって来てくれて、その後は俺が引き寄せちゃった。…あんまり、可愛くて。あと…その…帰したくないなって…思っちゃって。」
「え…?」
「って、最初のお家デートなのに、欲張りすぎてるよね。でも、紫月さんが長く居てくれたのも全然、迷惑とかじゃなくて嬉しいだけだから。…むしろ、起こさないで長く居てもらったの、俺が。」
日向の声が紫月の耳の近くで響く。普段はあんなにはきはきと話す人が、今日は声が小さかったり掠れていたり、間があったりする。そんな姿は会社では見れない。きっと、自分だけが見れる『特別』だ。
「…帰り…たくないなって…その、今日が終わっちゃうの、さ、寂しいなって…思ってて。」
「…え…?」
日向が腕を解いて、紫月の両肩を軽く掴んでまっすぐに見つめた。視線を合わせられないままの紫月は、つっかえながらも口を開いた。
「…帰るってことを、考えたく…なくて、目を閉じたら…眠っちゃって…。気が抜けてるよね…ほんと。」
「…帰らないで、いてくれるの?」
「…?」
震えて、掠れた声に紫月は顔を上げた。少し頬が赤く染まった日向がそこにはいて、紫月にもその赤さは伝染した。
「…紫月さんが、…嫌じゃない、なら…帰らないで…ほしい。」
「…そんなの、いいの?」
そんな、自分に都合の良いことが起きていいのだろうか。終わりにしたくない今日をまだ続けてもいいと、日向の言っていることはそう聞こえる。まっすぐに見上げた日向の目は揺らいでいない。
「俺がお願いしてるんだよ、紫月さん。居ていいんじゃなくて、居てほしいの。でも紫月さんは断っても、居るって言ってくれてもどっちでもいい。…紫月さんのしたい方を、ちゃんと選んで。」
肩に触れていた日向の手が紫月の両手を優しく包み込んだ。一度その手に視線を向け、紫月は顔を上げた。
「大丈夫だよ。紫月さんが何を選んでも。」
紫月の手を包む日向の手は少しだけ力を帯びた。その温度と強さに力をもらって、紫月は頷いてから口を開いた。
「…日向くん。」
「うん。」
「…えっと、その、ご迷惑でなければ…お家デートの延長戦を、お願いしてもいいですか?」
紫月が言い終えると、日向の表情はぱあっと明るくなり、くしゃっとした笑顔を浮かべた。そして、紫月の手を握ったままぶんぶんと軽く振り始めた。
「延長戦!うん!初めてのデートの時も延長戦、したね。…今日も、延長戦。…全然戦いとかじゃないけどさ、実際。でも…嬉しい。選んでくれてありがとね、紫月さん。」
少しくだけた話し方になった日向に、胸の奥がとくんと鳴る。出会ってから今まで見てきた日向ではない表情や声に出会う度に何かが『違う』と理由もなくわかる。わかるようになったことが嬉しくて、その喜びが今日は紫月に『わがまま』を言わせた。
「…お、お世話になります。」
「あはは、真面目だね、本当に。お世話なんかずっとしてないのに。じゃあ、ちょっと買い出しに外出ようよ。歯ブラシとかメイク落としとかそういうの、必要じゃない?さすがに紫月さんが過ごしやすいアイテム、うちにないからさ。」
立ち上がった日向が軽く紫月の手を引いた。ゆっくりと紫月も立ち上がって手を握り返す。
「…うん。ありがとう、日向くん。」
いつも紫月に一歩を進ませてくれるのはこの手だ。握り返しながら、握られた手を見つめて紫月は小さく微笑んだ。
ゲームは思いのほか紫月も奮闘し、1時間を過ぎた頃からそれなりに互角に遊べるようになった。ずっと自分の頬が上がっていることに気付くと、それもまた嬉しくて時折ふっと力が抜けたように微笑んでしまう。そんなことを繰り返しながら一緒に夕飯を作り、それを食べ終え、何となく流れで気になっていた映画を観ていた。
(…今日が、終わっちゃう。)
最初で最後というわけではきっとない。そうは思えるのに、今日一日が楽しかったことと、知らなかった日向の一面を知ることができたことの新鮮さと嬉しさでずるずると帰らずにいる。長居しすぎることがよくないことだという常識はもっていても、名残惜しさが『そろそろ帰ります』を言わせないようにしていた。
(…映画も、あと20分、あるかないか…かな。)
112分の映画だったはずだ。内容よりも、そんなことばかり覚えている。普段は腹八分目くらいまでしか食べないのに、今日はずっと満腹を感じるところまで食べているせいで、最初は眠くなかったのに段々と眠くなってきた。隣から感じる日向の温かさもあって、いよいよ瞼が落ちてきてしまいそうだった。
(…人様のお家で寝るなんて、…失礼すぎる…。)
* * *
トン…と静かに、左腕に紫月の体が触れた。横目で盗み見ていただけでも、眠そうだということは何となく感じていた。しかし本当に眠ってしまうとは思わなくて、そして左半身に緊張が走って日向は息を飲んだ。
(…もしかして、今日もあんまり眠れなかったのかな。)
初めてのデートの時も同じことがあった。眠そうな紫月に仮眠を提案し、紫月はそのまままっすぐ頭を静かに落として目を閉じたが、その体が傾いで肩を貸すことになった。あの後目覚めた紫月の慌てようは今でも時折思い出す。あんなに長く紫月の体が触れていたのは初めてで、嬉しくてもその嬉しさは紫月に悟られるわけにもいかず、努めて冷静に見えるようにしなくてはと、そんな気持ちもあった。
今はあの時とは少し違う。あの時よりももっと、紫月のことを愛おしく思うし、触れていたいとも思う。眠いのなら、帰らずにここで眠っていってもいいんだよ、と喉元までその言葉が出かかるくらいに本音は、帰ってほしくなかった。
(…初めての家デートで帰ってほしくないとか…どんだけ余裕ないのって話なんだけど。)
触れてはいたいけれど、全てに触れたいとまでは思わない。ただ、その寝顔をもっと近くで見せてほしくて、朝目覚めた時に隣にいてほしい。
日向はそっと、紫月の肩に触れてゆっくりと自分の方に引き寄せた。紫月の体重がさっきよりも一層自分にかかったことを感じると、肩に触れていた手を今度は紫月の頭に回した。そして自分の肩に頭が乗るように引き寄せる。何の抵抗もなく、紫月の頭は日向の肩に下りてきた。
「…ゆっくり寝てていいよ、紫月さん。」
ずっと頑張っていた人だから、休んでほしいという表向きの理由と、理由さえ用意すればこの時間を延長することができるかもしれないという本音をいったりきたりしながら、日向も静かに目を閉じた。
* * *
「ん…。」
目を開けてもすぐには視界がはっきりしなかった。しかしそんな自分に気付くと急激に血の気が引き、とんでもないことをしてしまったことに気付く。
紫月はパッと顔を上げて、日向の方を見つめるとすぐに目は合った。
「…おはよう、紫月さん。」
「っ…あの、ごめんなさい!人様のお家で寝ちゃうなんて私…本当に失礼でっ…!」
「いっぱい頑張ってたから、紫月さん。疲れちゃったんだよ。」
「でもっ…こ、こんな遅くまで…あっ!私どのくらい寝て…。」
「1時間くらいかな。熟睡だったよ。」
「ごめんなさいっ!」
紫月は深く頭を下げた。すると、いつの間にか体の向きを紫月の方に向けた日向の腕が紫月の背に回った。少しあった距離が、日向が少し身を乗り出しながら抱きしめたことでゼロになった。
「…全然、ごめんなさいじゃないよ。俺の横で眠ってくれるんだって、嬉しくなってただけだから。そんなに謝らないで。謝ってもらうようなこと、本当にないよ。」
「…わ、私ずっと、日向くんにもたれてた…の…?」
日向の腕の力が強まった。紫月も、日向の腕の隙間から自分の腕を伸ばし、日向の背に回した。少しだけ力を込めると日向の髪が紫月の頬に触れた。
「…寝ちゃってコテンって来てくれて、その後は俺が引き寄せちゃった。…あんまり、可愛くて。あと…その…帰したくないなって…思っちゃって。」
「え…?」
「って、最初のお家デートなのに、欲張りすぎてるよね。でも、紫月さんが長く居てくれたのも全然、迷惑とかじゃなくて嬉しいだけだから。…むしろ、起こさないで長く居てもらったの、俺が。」
日向の声が紫月の耳の近くで響く。普段はあんなにはきはきと話す人が、今日は声が小さかったり掠れていたり、間があったりする。そんな姿は会社では見れない。きっと、自分だけが見れる『特別』だ。
「…帰り…たくないなって…その、今日が終わっちゃうの、さ、寂しいなって…思ってて。」
「…え…?」
日向が腕を解いて、紫月の両肩を軽く掴んでまっすぐに見つめた。視線を合わせられないままの紫月は、つっかえながらも口を開いた。
「…帰るってことを、考えたく…なくて、目を閉じたら…眠っちゃって…。気が抜けてるよね…ほんと。」
「…帰らないで、いてくれるの?」
「…?」
震えて、掠れた声に紫月は顔を上げた。少し頬が赤く染まった日向がそこにはいて、紫月にもその赤さは伝染した。
「…紫月さんが、…嫌じゃない、なら…帰らないで…ほしい。」
「…そんなの、いいの?」
そんな、自分に都合の良いことが起きていいのだろうか。終わりにしたくない今日をまだ続けてもいいと、日向の言っていることはそう聞こえる。まっすぐに見上げた日向の目は揺らいでいない。
「俺がお願いしてるんだよ、紫月さん。居ていいんじゃなくて、居てほしいの。でも紫月さんは断っても、居るって言ってくれてもどっちでもいい。…紫月さんのしたい方を、ちゃんと選んで。」
肩に触れていた日向の手が紫月の両手を優しく包み込んだ。一度その手に視線を向け、紫月は顔を上げた。
「大丈夫だよ。紫月さんが何を選んでも。」
紫月の手を包む日向の手は少しだけ力を帯びた。その温度と強さに力をもらって、紫月は頷いてから口を開いた。
「…日向くん。」
「うん。」
「…えっと、その、ご迷惑でなければ…お家デートの延長戦を、お願いしてもいいですか?」
紫月が言い終えると、日向の表情はぱあっと明るくなり、くしゃっとした笑顔を浮かべた。そして、紫月の手を握ったままぶんぶんと軽く振り始めた。
「延長戦!うん!初めてのデートの時も延長戦、したね。…今日も、延長戦。…全然戦いとかじゃないけどさ、実際。でも…嬉しい。選んでくれてありがとね、紫月さん。」
少しくだけた話し方になった日向に、胸の奥がとくんと鳴る。出会ってから今まで見てきた日向ではない表情や声に出会う度に何かが『違う』と理由もなくわかる。わかるようになったことが嬉しくて、その喜びが今日は紫月に『わがまま』を言わせた。
「…お、お世話になります。」
「あはは、真面目だね、本当に。お世話なんかずっとしてないのに。じゃあ、ちょっと買い出しに外出ようよ。歯ブラシとかメイク落としとかそういうの、必要じゃない?さすがに紫月さんが過ごしやすいアイテム、うちにないからさ。」
立ち上がった日向が軽く紫月の手を引いた。ゆっくりと紫月も立ち上がって手を握り返す。
「…うん。ありがとう、日向くん。」
いつも紫月に一歩を進ませてくれるのはこの手だ。握り返しながら、握られた手を見つめて紫月は小さく微笑んだ。