紫陽花の憂鬱

少しだけ、昔話を

* * *

「紫月さん、眠くなった?」

 日向の家に戻ってきて、紫月から先に風呂に入り、日向が入っている間に髪を乾かして、ほうじ茶を飲んで少し落ち着いたところだった。時計の針はいつの間にか11時半をさしていた。

「…えっと、なんかまだ、…いつもなら眠いはずなのに、今日はまだ眠くなくて…。」
「はは、わかるわかる。俺もまだ眠くない。…もうちょっと、喋ってもいい?」
「も、もちろん!」
「じゃあ付き合ってもらおうかな、少しだけ昔話をさ、したいなって。」
「昔…話…?」

 紫月が問いかけると、日向はマグカップに視線を移しながら頷いた。

「うん。紫月さんはもう覚えてないかもしれないんだけど、…なんていったってもう6年くらい前の話になるしね。入社してすぐくらいのことだし。」
「入社してすぐ…って、色々ありすぎて…どれのことだろう?」
「え、紫月さん、覚えてるかな、俺が酔いつぶれた最初の飲み会。」
「覚えてるよ!日向くんがすごく辛そうで…、私のやったこともちゃんとできてたかなって心配になった、…から。」
「…そっか。最初っからかっこ悪いところを見せちゃって、俺は気持ち悪いのと情けなさと、…紫月さんのことが気になって、…やっぱりあれは、紫月さんの優しさに触れた最初だったよなって思うんだよね。」

* * *

 入社したての4月下旬。新人歓迎会が金曜日の夜に開催された。地元を離れて就職したこともあり、身近に友人もいなくて、新しいこの場所でなんとかやっていかなくてはならないと日向自身、とても強く思っていた時期でもあった。上司に気に入られた方がいい、同僚とも上手くやっていった方がいい、そんなことばかりが頭の中にあったような気がする。普段の飲み方だったらきっと悪酔いしなかっただろうが、慣れない環境での疲労と、気の休まらない飲み会の空気が確実に自分にダメージを与えていて、そのせいで酒が想定よりもはるかに早く回ったのだと店を出て少し冷たい春の風に当てられてようやく気付いた。

「日向ーお前、自力で帰れるかぁ~?」
「はい、大丈夫です。二次会は…すみません。」
「いいっていいって。また今度な。」
「はい、ありがとうございます。」

 上司に軽くぽんと背中を叩かれて、一瞬本当に吐いてしまいそうになって冷や汗が出た。ふらつく足を何とか騙して、あくまでもちゃんと立っているように見せる。みんなの方に一礼して駅の方に向かうふりをして、日向は近くの公園に向かうことに決めた。おそらくこのままだと動くものに乗ったら間違いなく吐くからだ。
 集団から離れると安心した。ひとまず自分の醜態をこんな4月から他人に晒して距離を取られる、なんてことにはならずに済みそうだとそんなことをぼんやり思いながら、座るところを探して足を引きずっていた。

「ひゅ…日向、くん!」

 雑踏に紛れかけた日向のことを呼ぶ、少し柔らかな声が後ろから聞こえてくるまでは。

「…梅原…さん…?」

 振り返ると少し息の上がった紫月が立っていた。いつも視界よりもぼんやりとしていて、それではまずいと思って日向は軽く頭を左右に振った。

「だ、大丈夫ですか…?その、…すごく、飲んでたみたいだし…歩き方が、気になって。」
「…わざわざ…それだけで、来てくれたんですか?」
「私の勘違いだったら…それはそれでいいかなって思って…。体調が悪いならどこかで倒れちゃったらって思うと心配で…。…勘違いだったらすみません。」

(…心配、してくれるんだ、…ただの同期ってだけ、なのに。)

 目をしっかり開けると、申し訳なさそうに目尻を下げながらも日向の様子を窺う紫月がそこにいた。

「…やっぱり、勘違いじゃない、ですよね…?」
「…うん。…ってすみません。ついタメ口で話しちゃって…。」
「そんなのは全然!気にしないでください!そんなことより体調…!」
「…この辺で、どこか座れるところありますか?涼しいところで少し休んでからじゃないと電車、乗れそうになくて…。」
「あ、あります。ここからすぐです。えっと、支えます。」

 紫月は日向の隣にすっと立つと、日向の背中に腕を回した。

(…こんな人だって、知らなかった。)

 ふわりと香る、知らないのに心安らぐ香りに少しだけ心が安心を取り戻した。触れられたところが温かくて、一生懸命さに解きほぐれていく何かが確かにあって、重い足を動かしながらぼんやりとそんなことだけが日向の頭には浮かんでいた。
 ほんの数分歩くと、小さな公園が見えた。ベンチが2つとその近くにはありがたいことに公衆トイレもある。ベンチに日向を座らせた紫月はパタパタと近くの自販機まで駆けていった。ガコンと何かが遠くで落ちた音がする。日向が俯いていると、紫月が隣に座った。

「水、飲めますか?」
「え…?」
「飲みすぎてしまったときは脱水に気をつけるのと、あと、水を飲んで早くアルコールを体から出しちゃった方がいいって…えっと、少し調べたら書いてあったので…。」
「貰っていいですか。というか払います。2本も買ってくれてるの、申し訳ないので。」

 差し出された方ともう1本の水のペットボトルが日向の視界の中にはあった。2本目のペットボトルが自分に向けられたものだろうが、相手が消費するものだろうがどちらでも良かった。もう見せかけてしまっている醜態の一部を少しでも軽くできることは今できる精一杯でしておくべきだという思考で、日向は口を開いていた。

「まずは日向くんが電車に乗れるように、回復するところが先ですよ。水分補給してください。一気にいっぱいはだめみたいです。少しずつ、ゆっくりと。」

(…この人、こんな風に、…笑うんだ。)

 体の中を駆け巡る気持ち悪さよりも先に、見たことがない笑顔に驚いてまじまじと見つめてしまった。すると途端に目の前の紫月が慌て始めた。

「す、すみません!偉そうなことを!あの、とにかく気をつけて水を飲んでください。」
「…ありがとう、ございます。」

* * *

「ちゃんと帰れてる、よね?」
「うん。結局1時間くらい、紫月さんは時々トイレに駆け込む俺に嫌な顔一つしないで付き合ってくれて。水も何本か買い足してくれたり、ちょっと会話もしてくれたりしてさ。…次の日、自己嫌悪でしんどくて、日曜も紫月さんに迷惑かけたなってことばっかり考えてて、月曜の仕事は全然行きたくなくて。…でもさ。」

 顔を合わせたら最初に絶対に謝ろうと思っていた。そしてそれ以前に紫月の反応が気になっていた。嫌がられて当然のことをしたけれど、できれば距離を置かないでほしいなんて都合のいい願いすら抱えて出勤した。あの日の心の落ち着かなさは今でも思い出せるくらいだった。

「…俺から話しかけようと思っていつもより早く行って、そしたら紫月さんは先に居て。周りに丁度誰もいなかったから謝ろうと思って声を掛けたら、紫月さんはぱっと振り返ってほっとしたみたいに笑ったの。『…良かった』って言って。『顔色も戻ってるし、いつもの日向くんですね』って。…すごく優しく、本当にただ優しく、笑ったんだよ、紫月さん。」

 日向は持っていたマグカップをテーブルに置いて、隣に座る紫月の方に少しだけ体重をかけてもたれた。紫月の肩に日向の髪がさらりと触れた。
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