紫陽花の憂鬱

そんなに前から

「…謝った後も、あのことがなかったみたいに普通で。1年目の最初の頃はそんなに話すチャンスはなかったけど、…俺が営業になって、紫月さんが営業事務になって、接点のある部署に配属になったから、…どうしても、頑張りたかった。少しだけでも、たとえ仕事の話だとしても、話したくて。」
「…そんなに、前、…から?」

 紫月の声には戸惑いが乗っていた。日向はさらに少し、体重をかけた。甘えたことをしているのは今も昔もよくわかっている。

「…うん。そんなに前からずっと、紫月さんが居た。…今も甘えちゃってごめんね、重い?」
「う、ううん、大丈夫。…えっと、ちょっと緊張はしてる、けど。」
「緊張?」
「日向くんがこういう風に、…その、私に預けてくれるの、多分初めてかなって思って。」

 紫月のその言葉に、日向は首を横に振った。

「…初めてじゃないよ。最初だって紫月さんがいなかったら俺、公園で一晩明かしてたかもしれないし。紫月さんにおんぶにだっこで預けちゃってるよ丸ごと。だからね、紫月さんが泣いてたことに気付けたあの日は、ああやっと出番が来たかもって思ったんだよね。」
「出番?」
「うん。…やっと、紫月さんに返せるかもって。それと、…近付きたいなら頑張らなきゃいけないんだよなってそう思えたっていうか。でもそれは、紫月さんが彼氏と別れたとか、そういうの聞いた後だからずるいといえばずるいんだけどね。…もっと前から、ガンガンアプローチすることはできたわけだし。」

 紫月の肩を借りたままの日向は顔を上げられないでいた。5年以上もずっと、ただ静かに想っていた。想っているだけでは伝わらないことは知っていても、動き方がわからなかったのだから。

「…あの、日向くんは、本当に…。」
「うん。」
「そんなに前から…気にかけてくれてたの?」

 日向は頷いた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「気にかけていたというか、…どんどん、曖昧な気持ちが形を持ったんだよ。上司にどれだけ評価されても、紫月さんの『おはよう』には敵わない。ただそれだけ。…本当にたった、それだけだったんだ。」

 ふぅっとゆっくり、日向は息を吐いた。

「…紫月さんに、一つだけ嘘を吐いた。」
「う、嘘…?」
「…うん。あの日の帰り道に、今すぐに大好きだって言えるほど紫月さんのことを知らないって言ったけどね、…『大好き』の気持ちはあっても、あの時の紫月さんには言えなかったからそう言っただけ。どんなことでも知りたいって思えるくらいには大好きだったよ、あの日だって。見せてくれるならどんな顔も見たかったし、話してくれるならどんなことも聞きたかった。…あの時点で、というか、あの日以前からもうちゃんと『好き』だったんだ、紫月さんのこと。少なくとも俺はね。…だから。」

 日向は顔を上げた。そして少し紫月から離れて向き直る。距離をなくすために、そのままゆっくりと紫月の体を抱きしめ、紫月の肩に頭を乗せた。

「紫月さんは安心して、どんな紫月さんも見せてね。…嫌いになんてならないから。いっぱい頑張ってなくていいんだよ。ただ居てくれて、…顔見せてくれたら、充分だから。…今日の延長戦はずっと、夢見てるみたいなんだよね。…抱きしめたら居るのに、してることには現実味がない。…自分に都合の良い夢を見てるみたいな…。」

 そう言いながら、日向の腕には力がこもる。紫月はそっと、日向の背中に腕を回した。そして紫月の方から少し前に動いて体をぴたりと寄せた。

「…私の方こそ、夢みたいだよ。…日向くんがそんなに前から…好きでいてくれた、なんて。」
「…重い男な自覚は、あります。…引いてない?」
「な、ないよっ!ないです!嬉しい…し、…あと、もっと頑張りたいなってやっぱり思って…。」

 ただ尊敬と信頼を置いていた紫月とは違って、日向は特別な感情を寄せてくれていた。その想いに追いつきたかった。
 その瞬間だった。ずっと紫月の肩に顎を軽く乗せて、頭を下げかけていた日向の顔がすっと離れ、思っていたよりもずっと近くに顔を寄せていた紫月の唇が、日向の頬を掠めた。

「っ…ご、ごめんなさい!私…!」

 咄嗟に距離を取って離れようとした紫月を感じた日向は紫月の手を取った。驚いた日向の表情は照れたものに少し変わり、それでいて眼差しは真剣だった。

「…ごめんじゃ、ないよ。紫月さんがしてくれることは何でも嬉しいから。…俺がしたら、紫月さんは困っちゃう?」
「っ…。」

 息が詰まる。困らないから困るのだ。困らないけれど、そう肯定することはまるでそうしてほしいと言っているみたいで、それが恥ずかしくて喉の奥で声がくすぶっている。

「…紫月、さん?」

 紫月の指を軽く取って、日向がそっと自分の口元まで運んだ。

「ほっぺが近くて緊張するなら、指はだめ?」

 どちらにせよ緊張するが、自分はすでに一度頬に唇で触れてしまっている側だった。日向がしたいのならば、拒むのはきっと対等じゃない。

「…どこでも、大丈夫、です…だって私が、先にしちゃった…から…。」
「じゃあ指にするね。…ちょっとずつ、近付かせて。」

 紫月の指先に日向の唇が触れた。柔らかな感触に体がビクッと反応してしまい、それが余計に恥ずかしい。恥ずかしさから少しずつ紫月の視線は日向のものに合わせられなくなってしまった。

「紫月さん?」
「…どこでも、…大丈夫じゃ…ない…やっぱり…。」
「え?」
「…指だけ、熱い。今は…ちょっと顔も熱くて、上げられ…ない…。」

 そんな紫月に、日向は小さく微笑む。そして、マグカップ一杯分の相談室の夜のように、そっと伸びてきた日向の手が紫月の頭を優しく撫でた。

「…可愛いなぁ、もう。」

 日向の楽しそうな、くすぐったい声が耳に響く。顔が見たくなっておずおずと顔を上げると、想像していた通りの表情で見つめてくれる日向がいた。

「ん?」
「…日向くん。」
「何?」
「…日向くんも、…されたら嬉しい?…その、さっきは事故みたいにしちゃったけど…。」
「え…?」
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