野いちご源氏物語 三四 若菜(わかな)上
しばらく黙っていた尼君(あまぎみ)が静かに口を開いた。
「あなたのおかげで幸せな思いをさせていただいているけれど、やはりうれしいばかりではいられなくて、悲しい目にも()うものですね。
生まれ育った都から明石(あかし)へ引っ越すときは、なんという運命だろうと思ったけれど、夫を信じてついていったのです。そのまま明石で平凡(へいぼん)に一生を終えるつもりでいたら、思いがけなくあなたが源氏(げんじ)(きみ)と結ばれて、捨てたはずの都に戻ることになりましてね。あなたが源氏の君から愛していただいて、姫君(ひめぎみ)はどんどんご成長なさって、それはもちろんうれしいことでしたけれど、明石に置いてきた夫のことはいつも気がかりだったのです。

ついに再び会うこともできず、離れ離れになったままあの人は(みずか)ら山に入って、今ごろはもう死んでいるかもしれません。(くや)しいことです。たしかに昔から変わったところのある人でしたけれど、若いころの情熱で結ばれた仲ですから、信頼しあってともに暮らしてきたのですよ。
明石なんてすぐ近くではありませんか。それがどうしてこんなお別れになってしまうのでしょう」
また泣き顔になる。

明石(あかし)(きみ)も泣いている。
「早まったことをなさいました。どうして皇子(みこ)様が(みかど)におなりになるまで見届けてくださらなかったのでしょう。誰よりも父君(ちちぎみ)がそれを一番望まれていたというのに。私が皇子様の祖母君(そぼぎみ)になったからそれで満足とでもお思いになったのでしょうか。私のような身分ではそれらしいお(あつか)いなどしていただけませんよ。あくまでも女御(にょうご)様が中宮(ちゅうぐう)に、皇子様が帝におなりにならなければ、父君の夢物語は完成しませんのに」
一晩中悲しみあっているうちに夜明けが近づく。

「源氏の君に何も申し上げずこちらに来てしまいましたから、今朝になってどこにいるのか分からなくなったら、軽々(かるがる)しい振舞いだとご不快に思われましょう。私自身のことはどう思われても構いませんが、万が一女御様の印象まで悪くなったらお気の毒ですから、いそいで春の御殿(ごてん)に戻ります。思いどおりには動けない身です」
明石の君は夜明け前に戻ろうとする。

「皇子様はどんなふうでいらっしゃいますか。どうしたらお会いできるだろう」
と尼君はまた泣く。
「今にお目にかかれますよ。女御様もときどき尼君のお話をなさいます。源氏の君も、『尼君には皇子様のご将来まで見届けてほしい』と(おお)せです。どなたも母君(ははぎみ)のことを気にかけてくださっていますよ」
明石の君が(なぐさ)めると、尼君は素直にほほえんで、
「そうですか。やはり私は運がよい」
とよろこぶ。
明石の君は明石の入道(にゅうどう)からの手紙を持って春の御殿に戻っていった。
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