野いちご源氏物語 三四 若菜(わかな)上
源氏の君は見慣れない箱にお気づきになった。
「それは何ですか。大きな箱ですね。長い恋文が入っていそうだ」
「嫌なことをおっしゃいます。お若い姫宮様をお迎えになって、ご冗談まで若返りなさったのですね」
ほほえんでごまそうかとも思ったけれど、源氏の君が真剣に気になさっているご様子なので、本当のことをお話ししてしまう。
「明石の父からの手紙でございます。住吉大社への、女御様に関するお願い事などを書いた紙も入っておりますが、源氏の君にはお願い事が叶ってからお目にかけたいと存じます」
<それでふたりそろってしんみりなさっていたのか>
源氏の君は納得しておっしゃる。
「明石の入道は仏教の修行に集中しているのでしょうね。出家してもう長いから、仏様の教えの奥深いところまで理解していることでしょう。立派な僧侶といってもあれほどの人はめったにいませんよ。分かりやすく悟りきった顔をしているわけではなかったけれど、私が明石にいたころにはすでに、仏様の世界を心の目で見ていたのではないかな。もう今はあなたのことを心配する必要もなくなって、すっかり仏様の世界に入り浸っているのだろう。うらやましいことだ。私が気軽に動ける身分なら、こっそり会いにいって話を聞きたいけれど」
「それがすでに、お寺を出て山に入ったようでございます」
源氏の君ははっとなさる。
「では、そのお手紙は遺言ということか。尼君はどれほどお悲しみだろう。親子の別れも悲しいが、夫婦の別れはまたいちだんとつらいものだから」
涙ぐんでおつづけになる。
「私でさえ、年を取っていろいろな経験をすればするほど、あの入道のことが恋しく思い出される。夫婦であった尼君はどれほど恋しく思っておられることか」
<手紙に書かれていた縁起のよい夢というのが、もしかしたら源氏の君にもお心当たりがあるかもしれない>
明石の君は源氏の君に手紙をお見せする。
「珍しい字で読みにくいかと存じますが、お役に立つことが書かれているかもしれませんので、どうぞご覧くださいませ。父には二度と会えない覚悟で都に上がりましたけれど、やはり気にかけつづけておりましたから、死ぬつもりで山に入ったのだと想像すると悲しゅうございます」
「最後までしゃんとしておられたのですね。立派なご筆跡だ。貴族として十分出世できる才能のある人だったが、世渡りがうまくなかったのでしょう。入道の父君は忠実な大臣だったのに、一度だけ政治上の判断を間違ったらしい。世間では、それが原因で入道も都での出世競争から外れ、家系は落ちぶれていくのだと言われていたようです。しかし、あなたから女御様へ血筋は保たれたではありませんか。娘の血筋ではあるけれど、みごとに返り咲きましたよ。入道が長年修行した甲斐があったということでしょう」
明石の入道に同情してお泣きになる。
それから入道が縁起のよい夢を見たというところにご注目なさる。
「あなたの結婚相手に高い望みがあったようだから不思議に思っていたのですよ。そして私が入道に誘われるままあなたに惹かれたのも、我ながら軽率な振舞いだと思っていた。姫が生まれたときに、あぁこのための運命だったのかと納得したけれど、まさかその姫が皇子を産んで、皇子が帝になるなどと、そんな将来を思い描くことまではしなかった。入道はそういう将来を見据えていたのですね。私が理不尽な目に遭って明石まで行くことになったのも、住吉大社の神様が入道のお願い事を聞き入れてお決めになったのだろう。いったいどのようなお願い事を書いたのか拝見させていただきましょう」
お心のなかで神様に拝んでから、入道が神様に書いた紙をご覧になった。
「それは何ですか。大きな箱ですね。長い恋文が入っていそうだ」
「嫌なことをおっしゃいます。お若い姫宮様をお迎えになって、ご冗談まで若返りなさったのですね」
ほほえんでごまそうかとも思ったけれど、源氏の君が真剣に気になさっているご様子なので、本当のことをお話ししてしまう。
「明石の父からの手紙でございます。住吉大社への、女御様に関するお願い事などを書いた紙も入っておりますが、源氏の君にはお願い事が叶ってからお目にかけたいと存じます」
<それでふたりそろってしんみりなさっていたのか>
源氏の君は納得しておっしゃる。
「明石の入道は仏教の修行に集中しているのでしょうね。出家してもう長いから、仏様の教えの奥深いところまで理解していることでしょう。立派な僧侶といってもあれほどの人はめったにいませんよ。分かりやすく悟りきった顔をしているわけではなかったけれど、私が明石にいたころにはすでに、仏様の世界を心の目で見ていたのではないかな。もう今はあなたのことを心配する必要もなくなって、すっかり仏様の世界に入り浸っているのだろう。うらやましいことだ。私が気軽に動ける身分なら、こっそり会いにいって話を聞きたいけれど」
「それがすでに、お寺を出て山に入ったようでございます」
源氏の君ははっとなさる。
「では、そのお手紙は遺言ということか。尼君はどれほどお悲しみだろう。親子の別れも悲しいが、夫婦の別れはまたいちだんとつらいものだから」
涙ぐんでおつづけになる。
「私でさえ、年を取っていろいろな経験をすればするほど、あの入道のことが恋しく思い出される。夫婦であった尼君はどれほど恋しく思っておられることか」
<手紙に書かれていた縁起のよい夢というのが、もしかしたら源氏の君にもお心当たりがあるかもしれない>
明石の君は源氏の君に手紙をお見せする。
「珍しい字で読みにくいかと存じますが、お役に立つことが書かれているかもしれませんので、どうぞご覧くださいませ。父には二度と会えない覚悟で都に上がりましたけれど、やはり気にかけつづけておりましたから、死ぬつもりで山に入ったのだと想像すると悲しゅうございます」
「最後までしゃんとしておられたのですね。立派なご筆跡だ。貴族として十分出世できる才能のある人だったが、世渡りがうまくなかったのでしょう。入道の父君は忠実な大臣だったのに、一度だけ政治上の判断を間違ったらしい。世間では、それが原因で入道も都での出世競争から外れ、家系は落ちぶれていくのだと言われていたようです。しかし、あなたから女御様へ血筋は保たれたではありませんか。娘の血筋ではあるけれど、みごとに返り咲きましたよ。入道が長年修行した甲斐があったということでしょう」
明石の入道に同情してお泣きになる。
それから入道が縁起のよい夢を見たというところにご注目なさる。
「あなたの結婚相手に高い望みがあったようだから不思議に思っていたのですよ。そして私が入道に誘われるままあなたに惹かれたのも、我ながら軽率な振舞いだと思っていた。姫が生まれたときに、あぁこのための運命だったのかと納得したけれど、まさかその姫が皇子を産んで、皇子が帝になるなどと、そんな将来を思い描くことまではしなかった。入道はそういう将来を見据えていたのですね。私が理不尽な目に遭って明石まで行くことになったのも、住吉大社の神様が入道のお願い事を聞き入れてお決めになったのだろう。いったいどのようなお願い事を書いたのか拝見させていただきましょう」
お心のなかで神様に拝んでから、入道が神様に書いた紙をご覧になった。