嫁いだ先の冷徹侯爵は、あまりに遠慮がなさすぎる
「女王陛下。その化粧は、あなたにまったく合っていません」

 絢爛豪華な大広間の、女王陛下の誕生パーティー。
 玉座に座るルールグロウ王国の女王に挨拶しようとしたとき、隣の男がそうのたまったものだから、彼の妻――リアは絶句し目を剥いた。

 たしかに女王の化粧はお世辞にも上手いとは言えない。
 ファンデーションはよれているし、コンシーラーは変に明るいし、チークはなんだか妙に鮮やかな色でクッキリしている。
 瞼の上に載せたラメが左右非対称だし、アイラインはなぜかとんでもなく長いし、そもそもスモーキーにしたアイシャドウは華やかな場には向いていない。
 少なくとも、若くして戴冠した少女のような面持ちの彼女には、まったくといって言いほどこの化粧は合っていない。
 だとしても、リアの夫でありこの爆弾発言の主――レオナルドは、この華やかで明るい場所でそんなことを言うべきではなかった。

「あ、あの、女王陛、下っ!」

 なんとかリアはフォローを試みるも、時すでに遅し。
 女王はわなわなと震えはじめたかと思うと、右手に持っていた錫杖をドンと勢いよく地面に打ち付けた。
 音楽が響くように設計された大広間にはよく響く。
 そして目を大きく見開き、眉間と鼻筋には深いしわを刻み、唾が飛び散らん勢いで叫び出した。

「不敬な! 衛兵、この男を即刻捕らえて、刑に処せ!!! 妻も同罪じゃ!」
「はっ!」
「わらわに恥をかかせるなぞ、死刑が妥当! とっとと目の前からいなくなれ!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

 そうは言っても、女王の命令はこの国では絶対。
 衛兵はすぐさまリアとレオナルドを捕らえ、手首を体の後ろで縛りつけた。

「ふむ。私がいなくなればこの国は瞬く間に瓦解してしまいますが……もしかして女王陛下は、馬鹿なのでしょうか」
「何言ってんの!?」

 不敬に不敬を重ねる夫に、リアは思わず言ってしまった。
 しかしレオナルドの口撃はとどまることを知らない。

「やはり、若くして戴冠させたのは間違いでしたか。常識も知らないようでは、女王など不適。早くそこから降りるのがよいでしょう」

 レオナルドはリアと同じく後ろ手で拘束され、衛兵に無理やりその場から立ち去らされようとしているというのに、無表情で淡々と続ける。
 その姿にリアも堪忍袋の緒が切れ、衛兵が体を押さえつけようとするのに抵抗して、レオナルドのほうに向き、声を荒らげた。

「どう考えてもあんたのほうが常識――」


「――ないでしょ!!!!!」

 自分の声で、リアは目を覚ました。
 汗をかき、息も荒い。
 彼女はどくどくと脈打つ胸元を押さえ、良かった夢か……、と独り言ちた。
 窓の外は朝焼けが消えかかっているころで、もうそろそろ朝食の時間だ。隣で寝ていた夫はすでにいない。出立の時間が早いと聞いていたから、すでに朝食を食べているのかもしれない。
 リアはメイドを呼んで身支度を済ませると、すぐに食堂へ向かった。

 ***

「顔色が悪い、リア。体調が悪いのであれば、もう少し寝ていたほうがいい」
「そんなことありませんわ、旦那様」

 食堂に着くと、すでにレオナルドは仕事用の服に着替え、朝食を食べ終えて新聞を読んでいた。
 夢で見た姿と同じ彼を見るなり、リアは少しだけドキリとする。
 そんな彼女に投げられたのが、そんな言葉だった。
 レオナルド・オーデムランツ侯爵。
 若くして両親から爵位を継ぎ、仕事も確実にこなす優秀な貴族。
 目鼻立ちはたいそう秀でていて、綺麗に短く揃えられた黒髪と、その前髪から見える切れ長の目つきは、世の女性たちを虜にしていた。
 身長も世の男性よりも一回り大きく、剣や槍などの武芸も嗜み、この国でも一、二を争うほどの実力の持ち主だ。
 だが、そんな優秀な逸材は、補ってあまりあるほどの悪評が存在する。

「そんなに体調が悪そうでは、周りの人間が気を遣ってしまう。今日は仕事を休んで、休養するといい」
「……お気遣い、ありがとうございますわ」
「いや、君のためもあるが、周りの人間のためでもある。気にするな」

 そうしてレオナルドは席を立ち、仕事に向かうべく執事とともにエントランスホールへと向かった。
 お見送りをしないと、とも思ったが、「体調が悪い人に見送ってもらう必要はない。食事を終えたら、早く自室に戻って休め」と言い、こちらを手で制して行ってしまった。
 その背中を見て、リアは彼の悪評をしみじみと実感していた。

 レオナルドの悪評――それは、まったくと言っていいほど言葉を選ばないということだ。
 自分にも他人にも厳しい彼は、一切言葉を選ぶことなく、ストレートに伝わる言葉しか話さない。
 それが同僚、仕事先の上司、他国の大使、そして女王相手だとしても。
 悪いことがあれば悪いと言い、自分に危害が及ぼうとも思ったことや上がってきたことを報告する。しかもまったく言葉を選ばずに。
 そのおかげで陰では、冷酷貴族だなんて愛称すらあったし、彼と敵対する貴族は山ほどいるとも言われていた。

 リアは夢で見たあの光景をふと思い出す。
 実は、レオナルドが女王に「化粧が合わない」と言ったのは、現実だ。しかも、つい昨日の話。
 実際の女王は朗々と笑い、そうかそうか、と言って許してくれたものの、夢のような流れになってもまったくおかしくなかった。
 けれどそれは、彼が女王に気に入られているだけで、女王の気分が変わったり、代替わりがあったりすれば、話は変わるはず。
 リアはふるりと体を震わせた。
 レオナルド・オーデムランツは、死に一番近いお人だ、と。おそらく数年後には不敬罪で処刑されるとまことしやかに囁かれている。
 さらに彼に嫁ぐ人間は、死にたがりの自殺志願者だとも。

「まさか、私が……ね」

 そしてリアはそんな彼に一昨日、嫁いでしまった。恋愛結婚ではなく政略結婚ではあるものの、どちらも妻になったことには変わりない。

「はぁ…………」
「奥様。ご体調は大丈夫そうでしょうか。必要があればご朝食を変えさせていただきますが」
「いえ、大丈夫よ」

 メイド長が心配そうにそう問いかけてくるのを、リアはかぶりを振って答える。
 夢見が悪かっただけで、別に風邪を引いているわけではない。
 そうしてリアは、あまり食欲が湧かないながらも出された食事を無事に終え、すぐに侯爵夫人としての勉強を始めた。

 なるべく死期を遠ざけるため。
 なるべくレオナルドが何かをしでかしても、対処できるように。
 そして彼の隣にいて、彼のフォローができるように。
 もともと男爵家という下位の貴族だったリアは、婚前に家庭教師から習ったとはいえ、貴族の常識や知識というものにまだまだ疎い。

 だからこそ、死にたくないがために、死に物狂いで勉強をするのであった。

   ◆

 しかし数日後。頑張ろうとした矢先に、リアは盛大に体調を崩してしまった。
 夫婦の寝室とは別の、応接室のベッドで横になった彼女は、ふう、とため息を吐いた。

「もう……せっかく頑張ろうとしていたのに……」

 そんな独り言が漏れてしまうのも仕方ないもの。
 2週間後に、再びレオナルドとともに王宮の夜会の予定が入っていて、そのために頑張ろう、と決心したところだったのだ。
 侯爵夫人としての仕事をしつつ、貴族の知識を身につけ、ダンスや作法を完璧にする。
 そうすることによって、レオナルドの悪評を増長させることをなるべく控えたかったのだ。

「奥様は急に頑張りすぎですな。1週間ほど回復に勤しむのがよろしいでしょう」
「い、1週間、ですか!?」

 診察器具を仕舞いながら医師の言った言葉に、思わず目をみはる。
 これから1週間休むとなると、準備の時間が半分も減ってしまう。そうしたら、また死期が近くなってしまう。
 焦りのあまりガバリと体を起こす。しかし、めまいのせいで再び横になった。

「1週間ですよ。頑張るにしても、体調が万全じゃないとダメですからね」

 そう言って、医師は応接室から出ていき、入れ違いで侍女がやってきた。
 男爵家から連れてきた唯一の侍女、フローラだ。
 同い年の平民の子だったが、仕事ができ情報に精通する能力がピカイチということで男爵家で雇われるようになり、嫁ぐリアについてきてもらった。
 くりんと可愛らしいどんぐりまなこはどこか幼気な雰囲気であるものの、その容貌を使って情報を得ていたり得ていなかったり……とリアは聞いたことがあった。

「奥様。ご体調はいかがですか? ……といっても、大丈夫です、としか言いませんよね」
「フローラ……」

 普段と同じ可愛らしい風貌ながらも、フローラは有無を言わせぬ口調でリアのもとに近づき、せっせと汗を拭いたり服の準備をしたりする。

「旦那様にお伝えして、家庭教師と夫人としてのお仕事はお休みにしましたから、ちゃーんと休んでくださいね」
「え、旦那様にお伝えしたの……!?」
「ええ、もちろん。それがどうかされました?」

 きょとんと首をかしげるフローラを見て、リアは震えあがる。
 脳裏に浮かぶのは、あの遠慮のない男の姿だ。
 リアが体調を崩したと言おうものなら、いつもの真顔で淡々と告げるだろう。

『体調管理ができないとは、あなたはまるで子供のようだな』
『家庭教師の予定を変えるのは構わないが……向こうにも予定があるというのを忘れてはいけない』
『こんなことで侍女たちの手を煩わせるとは……まったく』

 いや、あくまで噂から派生したものであり、実際にリアが聞いたものではない。
 ただ幼馴染や自身の父親から聞いた情報をまとめると、どう考えてもそんな言葉が返ってくるとしか思えなかった。

「ね、ねえフローラ、風邪をひいたことは、旦那様にはお伝えした……?」
「いえ、それはお伝えしていませんが……」

 訝るフローラを横目に、リアは内心で拳を握った。

「じゃあ、他の言い訳を考えてほしいの!」
「……まったく、病人が何をしているんだ」

 とそのとき、応接室の扉が静かに開き、髪をかき上げながらレオナルドが入ってきた。
 よく見ると、肩を上下させて息をしている。外が暑かったのだろうか。

「奥様、お伝えはしていません。すでにご存知でしたので」

 フローラは苦笑まじりにそう言うと、レオナルドに一礼して部屋を出ていった。
 残されたのは、どことなく不機嫌そうなレオナルドと、そのレオナルドに怯えるリア。
 どう考えても、これから怒られるような雰囲気に、リアは掛布をぎゅっと握って頭までかぶった。

「……風邪を引いたと聞いたが」
「は、はい……」

 姿は見えないが、いつもよりも低い声が怖い。
 リアの返事にレオナルドはため息で返すと、部屋に沈黙が下りた。
 怒っているのか、呆れているのか。それともとくに興味もなく部屋から去ってしまったのか……
 しばらく沈黙が続き、リアは確信した。
 もう、旦那様は部屋から出ていったわ、と。
 衣擦れの音もしないし、こちらに話しかけてくる様子もない。
 部屋の扉の音もしなかったけど、きっと掛布を頭まで被っていたり、緊張しすぎて胸の鼓動がうるさすぎて聞こえなかったりしただけ。

 ――うーん、肩の荷が下りたわ……!

 少し頭がガンガンするし、熱っぽい体にだるさはあるが、急に気分が良くなる。
 そうだ、フローラに果実水でも持ってきてもらおうかしら。
 そんなことを思いながら頭までかぶった掛布をおろした瞬間、こちらに顔を近づけたレオナルドの顔面が視界に入り、落ち着いていた胸の鼓動が一気に跳ね上がった。

「やっとこちらを見たな」

 驚愕して再び掛布で顔を隠そうとするも、レオナルドの手に片手を掴まれて阻まれる。

「子供のような振る舞いでごまかせると思ったら、大間違いだ」
「す、すみま、せん……」

 子供っぽいと言われると、急に恥ずかしくなってくる。
 言われてみると、成人して結婚した大人が、こんな悪いことをして隠れるような子供じみたことをするなんて。
 リアの顔が耳の先まで真っ赤に染まる。
 しかし彼女の考えを知ってか知らずか、レオナルドはハッと眉をひそめると、リアの首元に手で触れた。

「すまない。病人にするべきことではなかった。熱が上がっている」
「ち、違うんです、これは……」
「言いたいことはたくさんあるが……体調が戻ってからだ」

 やはり怒られるのか……
 それはそうだ。
 無駄なことと曲がったことが嫌いで、常にまっすぐに考え物を言うレオナルド。
 仕事のできない人間はすぐに降格したりクビにしたりして、優秀な人材しか周りに置かないと聞く。

 ――こんなダメな妻じゃ、失格ね……

 リアはふいと顔を逸らす。
 するとゆっくりとレオナルドの手が離れ、「ゆっくり休むと良い」という言葉とともに、足音が遠ざかっていった。

「あなたのような魅力的で可愛らしいな妻の体調不良に気づかないなど……夫失格だっ……!」

 ――…………ん?

 何かとんでもない呟きが聞こえた気がして、リアは軽く顔を上げる。
 しかしそれと同時に応接室の扉が閉じ、レオナルドの後ろ姿は消えてしまった。

「い、今のは……?」

 聞き間違い……にしては、ずいぶんと鮮明にリアの頭に入ってきた。
 悔しそうで、まるで自分を戒めるかのような物言いだった。

「……え? え?」

 ぽぽぽ、と顔が熱くなり、リアは目をみはったまま辺りをきょろきょろと見回す。

「あれはいったい……?」
「奥様、服をいったん着替えましょうか――って、すごい熱!!」

 遠くでフローラの叫びとパタパタと焦っている足音が聞こえてくる。
 しかしリアは呆然としたまま、あの小さな呟きを消化するので精一杯だった。

   ◆

翌週。
朝に医師から通常の生活に戻ってもいいと許可をとったリアは、真っ先にレオナルドのもとへ向かっていた。
1週間も勉強をお休みしてしまったことについての謝罪と、そしてこの1週間毎朝毎昼毎夕毎夜、様子を見に来てくれたことにお礼を言うためだ。

――この1週間、かかさず来てくれたのよね……

リアの想像以上に体調不良は深刻だったようで、最初の3日ほどは体を動かすどころか目を開くのさえだるかった。
4日目以降から徐々に快方に向かっていったのだが、よく見ると部屋の中には綺麗な花や風邪に効くという薬草が、いたるところに置かれていた。
フローラに聞いたところ、これらがどうやらレオナルドが持ってきてくれたものということだった。
それ以降は、ベッドの住人になりながら彼の見舞いを受けたのだが、これも本当にすごかった。

朝一で見舞いに来たと思ったら出立の時間を過ぎても居残り、迎えに引きずられて部屋を出ていく。
昼にまた顔を出したと思ったら、仕事場を抜けてきたと言い、再び迎えに引きずられて部屋を出ていく。
夕方に顔を出したと思ったら、仕事は早退してきたと豪語し、背後から突如現れたこの国の宰相に怒られ邸内の書斎へ戻っていく。
そしてその仕事が終わったら、また応接室へやってきて、私の手をぎゅっと握りながら様子を見続ける……
残りの3日間は、まるで愛しい者同士の逢瀬のように、たいそう甘かった。

――政略結婚でもそんな風に振る舞わないといけないなんて……世の旦那様ってとても大変なのね。

というわけで謝罪と感謝のために、リアは朝一で医師の診察を受けて、その足で彼に会いに行こうとしていたわけだった。
フローラによると、レオナルドは書斎にいるらしい。レオナルドの書斎は、侯爵邸の最上階である3階に位置する。
リアは濃茶色の重厚な扉の前に立ち、コンコン、と控え目にノックをした。

『入れ』

即座に返答があったが、いつもよりもぶっきらぼうに感じた。

「失礼いたします、旦那様」

そう言ってドアノブに手をかける。
しかしその瞬間、部屋の中から凄まじい物音が聞こえてきた。
何か大きなものが倒れる音、書類などの大量の紙がまき散らされる音、そして「熱っ!」というレオナルドの声。

「だ、大丈夫ですか!?」

家庭教師から習ったとおりにゆっくり動いていたリアだったが、さすがにそんなことを聞いて落ち着いているわけにもいかず、勢いよく扉を開け書斎の中に入った。
リアの視界にまず入ったのは、明るい朝日に照らされた落ち着きのある部屋だった。
華美なものはなく、しかし地味ながらも緻密な装飾が施された家具や、細かな柄が描かれた壁紙、肌触りの良さそうなラグなど、どれも質の高そうなものが配置されている。

そして今、執務机は綺麗に横倒しになっていた。
机の上にあっただろう書類は床にまき散らされ、その上に紅茶がふりかかっている。
高級そうな白磁のカップとソーサーが割れていないのが幸いだろう。

「旦那様!」

レオナルドはそんな横倒しになった机の横で、脇腹をおさえてうずくまっていた。
どうしてこんな状況になったのかはわからないが、おそらくリアの返事をしたあと立ち上がろうとして、誤ってぶつかってしまったのかもしれない。
リアは急いで彼のもとに駆け寄った。

「お怪我はな――」
「リア! 体調は大丈夫なのか!?」

心配をしようとしたら、言葉を遮られて、逆に体調を心配されてしまった。

――それはこちらの台詞なのだけど……

「え、ええ。私はもう回復いたしました。それよりも旦那様、どこかにお怪我を」
「あ、ああ! 良かった! 本当に良かったよリア!」
「わっ、きゃっ!!」

レオナルドの顔を覗き込もうとしたリアだったが、すぐにレオナルドにぎゅっと抱きしめられて、思わず声を上げてしまった。
体に回された手と腕の力は思いのほか強く、少し痛いほどだったが、不快なものではなかった。

「ずっと心配していたんだ……、君が目覚めなかったらどうしようって」
「そんな大袈裟な……」
「愛しいリア、よかった……」
「あ、あの……旦那様……?」

レオナルドはリアの肩口に顔をうずめ、ふたたびぎゅっとリアを抱きしめた。
その様子を見ながら、リアの脳内は疑問符で埋め尽くされていた。

――思っていた様子と違うのだけど!?

リアは、レオナルドに会うなり怒られると思っていた。
何せ、自分が1週間寝込んでいたことで侍女たちに追加の仕事を与えてしまったし、勉強も滞ってしまった。
見舞いをしてくれたときにはフローラがそばにいたから、夫のように振る舞っていたが、二人きりになったら、夫として振る舞わなくてもいい。
“冷酷貴族”と噂されるレオナルドのことだ、二人きりになった瞬間いつものような無表情に戻り、叱責をしてくるのでは、と……思っていたのだが。

――二人きりだというのに、むしろお見舞いのときと全然違いますわ……!

リアが呆然としていると、レオナルドはハッと顔を上げた。

「す、すまない。こんな床でやるものではなかったな。愛しい君が元気になったのを見て、つい嬉しくて」
「は、はぁ……」
「さ、こちらのソファに座ってくれ。美しい君に汚れでもついたら大変だ」

そう言い、レオナルドはにっこりと微笑む。
優雅にエスコートされ、書斎のおそらく応接用のソファに案内された。

「本当に、今日もとても綺麗だね、リア。まるで女神が君臨したようにキラキラしている。侍女を呼ぶから、少し待っててほしい」
「は、はいぃ……」

先ほどから矢継ぎ早に褒められて、顔が沸騰しそうなほど熱かった。

――いったい、どういうことなの……!?

結婚当初の厳しい様子も、噂から推測していた未来もなかった。
いたのは、甘くリアを見つめ、まるで壊れ物のように触れ、愛を囁いてくるレオナルドだ。

それからリアは侍女がお茶を用意しに来てくれるまで、向かいに座ったレオナルドの甘い褒め言葉を聞く羽目になったのであった。
 甘く蕩けるような視線を受けながら飲む紅茶は、香り豊かで美味しいはずなのに、なかなか味がわからないもの。
 リアがそんな感想を覚えながらちらりと前を見ると、やはり嬉しそうにしているレオナルドの姿が視界に入った。

 ――なんだか、調子が狂うわ……

 テーブルにカップを置き、さっそく本題に入ろうとする。カチャ、と音を立ててしまい肩がひくりと震えてしまう。
 その直後、レオナルドが口を開いた。

「リア。君のために東方から取り寄せたお茶だ。後味がそんなに強くない、さっぱりしたものが好きだと思ったのだが、どうだろう?」

 所作を注意されると思って身構えたリアだが、どうやら違ったようだ。
 家庭教師からは常になるべく音を立てないようにしろ、と教わっていたが、レオナルド的にはこれは音がしていない範囲に入るのだろう。
 ホッと一息ついたものの、すぐに疑問が浮かんだ。

 ――どうして旦那様は、私のお茶の好みを知ってるのかしら……?

 リアが体調を崩すまで、そして結婚をするまで、レオナルドと自分たちの趣味について話したことはない。
 というよりも、そもそもレオナルドとあまり話したことがない。
 もしかしたら結婚を取り決めるまでの間に、リアの父から聞いたのだろうか。
 ただ、それだと少し疑問が残る。
 実はリアは、両親にお茶の好みを誤魔化して伝えているのだ。

「君の家ではもう少し味の強いお茶が出ていたと記憶しているが……こちらも気に入ってくれると嬉しいな」
「い、いえ……とても美味しいです……」

 レオナルドの言葉に、リアの頬が少し赤くなった。
 もともとリアの家ではどちらかというと味が濃くクセが強めのお茶を好んでいた。
 父親やリア以外の家族はとくにそれを好むことから、家にはそのお茶の在庫しかない。だが、彼女はあまりこのお茶が好きではなかった。
 もちろん、それ以外のお茶を買うことはできたものの、わざわざそうする勇気もなく、出されたものを美味しそうに飲むのが日課だった。

「私、こういったさっぱりしたお茶が好きなんです」
「ふむ、ならよかった。実は君の家のお茶は個人的には合わなかったから、君がこれを嫌ったらどうしようかと思っていた」

 肩をすくめてそう話すレオナルドを見て、リアは少し笑ってしまった。
 ここまであけすけに話す人は、そういないだろう。

「それでは、おのおの別のお茶を飲んだらいかがでしょう?」

 リアが言えなかっただけで、家族で別のお茶を飲む、というのは貴族の中ではそう珍しいことではない。
 しかしリアの言葉を聞くなり、レオナルドは軽く口を尖らせた。

「……君と同じ一緒にいるなら、君と同じ味を楽しみたいじゃないか」
「――っ!」

 なんだかレオナルドが子供のように振る舞うものだから、驚きのあまり目を見開き、そしてときめいてしまう。
 これまで聞いていた噂と、差がかなり大きいからだろうか。
 心臓が早鐘を打っている。これ以上レオナルドと話していたら、勉強で培ったリアの振る舞いにボロが出そうだった。
 そろそろ本題に入ろう。そしてはやく書斎から出よう。
 火照る顔をかすかに俯かせつつ、リアは少し早口で話し始めた。

「旦那様、今日お訪ねした理由なのですが……」
「あぁ、そうだった。君がここに顔を出すのは初めてだから、つい嬉しくなってしまった」
「あの……体調を崩してしまったことで勉強の時間に穴を開けてしまったことを、謝罪しようと……」
「…………ふむ?」

 上がっていたレオナルドの口角が少しずつ下がっていく。
 リアはなるべく怒られる回数が少ないようにと、返事も待たずに言い募った。

「それに私のお見舞いに、旦那様の貴重なお時間を使わせてしまいました……。私が体調を崩していなければ、それも必要なかったと考えると……」

 リアの顔がどんどん俯いて、とうとう真下を見てしまった。
 言葉の最後のほうもほとんど聞こえないくらい小さくなり、声の震えすら聞こえる始末だった。

「次回以降、旦那様のお手を煩わせないよう、気を付けます……」
「…………」

 なんとか最後まで言い終えたが、レオナルドは黙ったまま。
 とはいえリアも顔を上げる勇気などまったくなく、じっと下を見つめたままだった。
 それから何分経っただろうか。
 リアにしてみれば数時間ほど頭を下げていたような気がしなくもないが、テーブルの上のお茶がまた湯気を立てているから、そう経っていないかもしれない。

 ――どうして……旦那様は黙ったままなのかしら……?

 とくにレオナルドにおしゃべりという印象は持っていないが、理不尽に相手を無視する人だとも思っていない。
 いや、もしかしたらかなり怒っているのかもしれない。
 それこそ、怒りすぎて言葉が出ないほど。
 だとすると、自分が怒られるまではこの沈黙は終わらないだろう。
 意を決して、リアはちらりとレオナルドを見た。

「――っ!?」
「やっとこちらを見たな」

 レオナルドは、じっとこちらを見つめていた。
 その表情には怒りなどなく、目尻を下げ、微笑ましくリアを見るような様子だった。

「それに返答する前に1つ聞きたいことがあるのだが」
「はい……」

 何を聞かれるのだろう。
 びくびくするあまり、再び顔を下げて自身の膝を見つめる。
 今度のレオナルドはそこで黙らず、話を続けた。

「君は風で髪が乱れたとき、風に向かって怒るか?」
「……はい?」

 よくわからない問いに思わずリアは顔を上げ、怪訝な表情をレオナルドに向けてしまう。
 しかし彼はいたって真面目な顔だった。

 ――なぞなぞ? それとも、何か言葉に裏があるということ……?

 ただこの場でなぞなぞを出される意味はわからないし、こんな真面目な顔でそれを聞くような人ではない。
 ではそのままの意味なのだろうか?

 ――とりあえず、答えるしかないわよね!

「いえ、自然の現象ですから、怒ることなんてしませんわ」
「そうか。なら、大丈夫だ」

 そう言うなり、レオナルドはすくっと立ち上がる。
 そしていつもながらに優雅な所作で二人の間にあったローテーブルを回ると、リアのもとにやってきて床に膝をついて腰を下ろし、彼女の手をとった。

「君が雨の中薄着で外に出回ったり、夜更かししたりしていないのは知っている。今回体調を崩したことに君に非はないのだから、君が謝らなければいけないことはない」

 そしてその手に、口づけを落とした。

「むしろ、こちらが気づかなくてすまなかった」
「旦那様……」

 そこでリアは、ふと思った。

 ――もしかしたら私、旦那様を誤解していたかもしれないわ。

 心配そうにリアを見上げるレオナルドの顔に、侮蔑も、落胆も、冗談めいたものも、一切なかったのだから。

「もしかしたら私の普段の振る舞いで、君に無理をさせてしまっていたのだろうか……。ほら、私は悪評が服を着ているような人間だから」
「ま、まぁ……いくつかの理由のうちの一つ……かもですが」

 どうやらレオナルドは、自身が冷酷貴族と呼ばれていたり、死に一番近い人だと言われていたりするのは知っていたようだ。
 だからといって、素直に「はいそうです」と言えるほど、リアに勇気はない。
 ただ彼の前で嘘をつくのも嫌だったので、十二分に濁した。
 しかしなぜかレオナルドは、ムッとしたような表情になった。まるで拗ねているような……

「私は物事をはっきり言わず、誤魔化す人間とわかりにくい人間を好まない。他人である以上、相手の考えることなんてわかるはずがないのに、無駄な労力を使いわざとわかりづらくしているのだから」

 そこでハッとする。
 リアが今したことに対して、怒っているのだ、と。

「君にそれを強制するつもりはないが、少なくとも私の前では、隠さずに本来の君であってほしい」

 真摯な眼差しでレオナルドは、そう言い切った。

 ――なんて、まっすぐな人なのかしら……

 そう思わざるを得なかった。
 彼の視線があまりに眩しすぎて、リアは視線を逸らした。
 これまでリアは男爵家の令嬢として貴族教育を受けてきた。
 当主を引き立てるために他の家人は一歩後ろに下がり、当主の言うことには必ず頷き、間違っていることを聞いてもにこやかに肯定する。
 それが家のためになるのであれば、自身の考えにはしっかり蓋をして、家に利をもたらすのが最優先だ、と。
 ふと、この家に来てすぐのときに受けた授業を思い出す。

 ――そういえば、そんなことは学ばなかったわ……

 まだその段階には行っていない、という可能性もあるが、少なくとも侯爵夫人としての心構えという授業において、自分の考えは二の次、だなんて習っていない。
 むしろ侯爵夫人として、侯爵が誤った道に進みそうになったら何をしてでも正しい道に戻せ、最終的にそれが家のためになる、とまで言っていたと思い出した。
 もしかしたら、このオーデムランツ侯爵家だけで習うものかもしれないが、少なくともレオナルド自身は、そうであることを願って家庭教師にそう教えるよう伝えたのだろう。

 ――本当に、まっすぐだわ。

「旦那様、私、謝らなければいけないことがあります」
「……聞こう」

 リアはレオナルドに視線を戻す。
 彼はかすかに顔を綻ばせて、リアを見返した。

「私は旦那様の悪評だけを聞き、それを信じてしまっておりました。だからなるべく旦那様を怒らせないようにしようと……」

 噂だけをひたすらに信じ込み、目の前の当人を見ることはなかった。
 たしかにレオナルドは、何もかもを決して遠回しに言うことはなくまっすぐ言うし、相手にどう思われようと自分の意見をしっかり話す。
 でも、彼は人から聞いたことを妄信することなくしっかり調べ上げ、それをもとに判断する。
 目の前の紅茶がその最たる証拠だ。

「これからはちゃんと人となりを見て、人からの伝聞に左右されることなく、自身で判断していこうと思います」
「そうか。オーデムランツ侯爵として、君がそうであることを願おう」

 レオナルドが紅茶を一口飲む。その口角はあがっていた。
 リアはホッと一息つく。これから頑張れそうという安心とレオナルドへの信頼が、胸にじんわりとしみ込んでいた。

「だが君の夫として言うなら、そんなに肩肘張らずにもっと気楽にしてくれたほうがいい」
「……へ?」

 レオナルドはカップを置くと静かに立ち上がり、リアの隣に座る。
 そしてそっと手に触れると、まるで恋人がするように指同士を絡ませてぎゅっと握った。

「だ、旦那様!?」
「この結婚はたしかに政略結婚だが、私は君のことを心から愛している。」
「っ!」
「君は、どうだ?」

 とても美麗すぎる容貌から放たれた静かで低く甘い声が鼓膜を震わせ、リアの体がひくりと震える。
 彼の手は温かく、親指で手の甲を撫でられると、なんとも言えないような感覚に襲われてしまう。

 ――急にそんなこと、言われても……!

 リアにしてみれば、レオナルドに対して愛情など考えたことがなかった。
 政略結婚として彼に嫁ぎ、侯爵たる彼がしっかりと仕事ができるようにそばで支え、夫人として彼の後継を為すこと、それしか考えていなかった。
 その間に愛があろうとなかろうと、それが貴族の結婚なのだから。
 ふとレオナルドに視線をやると、彼の熱っぽい視線がリアを射貫いていた。

「ふっ、……顔を赤くして、可愛いな」

 限界のあまりリアが顔を逸らすと、レオナルドは笑いながらそっと手を離してくれた。
 まだ手のひらに彼の温かさが残っているようで、その熱だけでもなんだか顔が火照ってしまう。

「きっと君は、これは貴族の結婚だから愛があろうとなかろうと関係ないと思ったのだろうが、私は違う」
「そ、そんなことは――きゃっ!?」
「私は君だから、結婚した。君と愛し合いたいんだ」

 ちょうどリアの顔の火照りが幾分収まったというのに、レオナルドがリアを急に横抱きするものだから、リアの顔はふたたび真っ赤になってしまう。
 自身よりも一回り以上大きな体に抱かれてしまえば、そこから抜け出すことは難しい。
 武芸の腕に秀でたレオナルドなら、なおのこと。

「どうやら君は、言葉や行動で示してもまっすぐ伝わらなそうだから、しっかりと伝わるように教えてあげないとな」
「そ、それは……」

 ひくりと顔が引き攣る。
 レオナルドはまったく危なげなくリアを抱き上げ歩き始める。
 向かったのは、夫婦の寝室だ。
 なぜか甘い香が焚かれていて、そばのシェルフの上には香油などが用意されていた。
 リアはそっと宝石を扱うような手つきでベッドに下ろされる。
 安心したのもつかの間、彼女の上にレオナルドが覆いかぶさった。
 舌で唇を舐める仕草は色っぽく、リアを射貫く瞳はただひたすらに熱を滾っている。

「――さて。()の愛を、しっかりと感じてもらおうか」

 病み上がりだから手加減はしてやる。
 そう言い、レオナルドはリアの服に手をかけた。

 その後、リアは途切れることなくレオナルドに甘く囁かれ、蕩かされて、愛を教え込まされた。

 ――まっすぐすぎると、それはそれで、恥ずかしいわ……!

 一緒に浴槽で汚れた体を清め、顔を両手で覆うリアに、レオナルドはまだ愛を囁いている。
 レオナルド・オーデムランツ侯爵は、言葉を選ばずに思ったことをすべて言う。
 その噂は間違っていない。
 しかしその実、甘い言葉と柔らかな表情で妻をこよなく愛する、愛妻家だ。
 妻のすべてを愛し、至らないところもすべて慈しみ、愛し尽くす。

 リアは今日それを知ったのだが、これから毎日のように彼の愛を実感するのだった。



   ― 完 ―
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