さよならの勇気～お隣さんはクールで意地悪な産業医～

「もしかして私を心配しているんですか？」

　隣を歩く先生に聞くが、先生は前を見据えたまま黙っていた。

「黙秘ですか？」
「不誠実な彼氏とは別れましたか？」

　石黒くんのことを言われて、ムッとする。

「石黒くんは不誠実なんかじゃありません！」

　思わず石黒くんの名前を口にすると、先生がこっちを見た。

「僕が石黒くんだったら、深夜に彼女を一人で歩かせない。それに無理なバイトもさせない」

　キッパリと言い切った先生の言葉が胸に重く響いた。
　石黒くんに大事にされていないと言われたようで、泣きそうになる。

「私がしたくてしているんです。石黒くんを悪く言わないで下さい」

　動揺した気持ちのせいで、語尾が少しだけ震えた。

「石黒くんのことが好きなんですね」

　低く沈んだ声で先生が言った。

「好きですよ」
「そうですか」

　静かな声で相槌を打った先生の横顔がどこか寂しそうだった。
　それから先生が黙ったままだったので、私も何も話さなかった。

　マンションのオートロックの扉をくぐり、エレベーターに乗っても、先生は何も言わない。ただ、いつもと同じように、私を待ってボタンを押してくれていた。

「おやすみ」

　部屋の前に着き、玄関ドアの鍵を開けようとした私に、先生は静かにそう言った。

「おやすみなさい」

　会釈をして部屋に入る。
　私が部屋に入った後にパタンと先生の部屋のドアが閉まる音がした。
　いつもそうだ。先生は私が部屋に入るのを見届けてから入る。

　先生は私を見守っているような気がする。
　どうしてなんだろう？
　産業医として私の健康が気になるからだろうか？
　そんなことを考えながらベッドに入り、森沢先生の言葉を思い出す。

　――僕が石黒くんだったら、深夜に彼女を一人で歩かせない。それに無理なバイトもさせない

　先生の言葉に腹が立ったけれど、ずっと見て見ぬふりをしてきた現実を突きつけられた気がした。
　石黒くんは、私が思っているほど大切に思っていないのかもしれない。それでも、初めての恋にしがみつきたい。女性として地味で冴えないこんな私を好きになってくれたのは、石黒くんだけだから。だから石黒くんを信じたい。きっと石黒くんは来月には引っ越して来てくれる。