さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~

3

 七月の最後の週になっても、石黒くんから引っ越しの時期について何も言われなかった。
 さすがに話さなければと思い、昼休みに12階の営業部へ行った。

「石黒なら、第一会議室にいると思うけど」

 営業部の同僚にそう教えてもらい、第一会議室前に行くと、ドアが少し空いていて、中から男性たちの話し声が聞こえて来た。

「同棲? するわけないだろ。彼女が勝手に突っ走ったんだよ。ベッドでのほんの戯言だよ。それを本気にしてさ」

 石黒くんの声を聞いた瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられ、呼吸が止まりそうになった。
 私が突っ走ったって何? ほんの戯言って何?

「でも一条さん、新居に引っ越しちゃったんだろ? このままでいいのか?」
「いいんだよ。このままフェードアウトすればさすがに同棲する気ないって気づくだろ」

 言葉の刃がガラスの破片のように全身に突き刺さる。
 石黒くんの声なのに、私の知らない冷たい石黒くんがいるみたい。

 優しかった石黒くんはどこに行ったの?
 私一人で家賃の為に頑張っていたのは何だったの? 

「丁度、母親が虫垂炎になったからいい口実になったけどな」
「もうすっかり元気なんだろ?」
「ああ、ピンピンしているよ。大したことなかったから手術することなく、薬で治ったよ」

 私をバカにするような石黒くんの笑い声も聞こえて来て、ショックのあまり、その場によろめき、壁に手をついた。
 全身から血の気が引いて、立っているのもやっとだった。

 今聞いた言葉が信じられない。
 お母さんの手術も嘘だったなんて……。
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