あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 *

 書斎に静寂が戻った午後。硯の蓋を閉じ、慶一郎は庭へと目をやる。
 朝のうちに薬草の手入れをしていたひなの姿は、もうそこにはなかった。

 どこか、物足りない。

 そんなふうに思った直後、廊下を通る女中たちの声が、かすかに襖越しに届いた。

「ひなに、お見合いの話が来てるってよ」
「へえ、そんな話、もう動いてるの? 早いわねぇ」
「いい家の息子らしいわよ。子爵家の──」

 言葉が、そこで遠ざかっていく。
 風が廊下を抜ける音と一緒に、会話も流れていった。

 手元に戻っていた視線を、慶一郎はふと止めた。
 筆を握ったまま、紙の上に落ちる影だけが、わずかに揺れている。

(──ひなが、嫁に出る?)

 心のどこかが、妙に冷えた。いや、違う。冷えたのではない。
 小さく、噛みつかれたような違和感だった。理由もわからぬまま、心の奥をくすぶらせる感情。

 彼女は女中だ。家に仕えてくれている。
 それだけのはずだった。信頼に足る薬師として、受け入れた人材。
 だが、それが「他人のものになる」と思った瞬間、どこかが妙にざわつく。

(……何を考えている)

 自分を嘲笑うように、ひとつ短く息をついた。
 筆を置き、再び庭に目を向ける。

 陽の傾いた花壇で、薬草たちが風に揺れていた。
 彼女の手が加わった庭は、どこか穏やかで、生きているように見える。
 慶一郎はただ静かに、目を細めた。
 
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