あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
4・一夜の夢 ※
月が薄い雲の切れ間から顔を覗かせ、庭にぼんやりとした光が差し込む。
涼やかな夜気の中、その人影に気づいたひなの胸が、一気に波打った。
「……旦那様」
縋るようにその名を呼んだとき、自分でも驚くほど声が震えていた。
(どうして……こんな時間に、ここに?)
慶一郎は足を止め、ひなのほうを静かに見つめる。
その表情には驚きと、わずかな安堵のようなものが浮かんでいた。
(……やっぱり、この方は)
世間では、冷たい人だと噂されている。
けれど、女中の皆が口々に言っていた──噂にすぎない、と。
数年仕えてきて、ひな自身にもわかる。
日々の中で、目を合わせ言葉を交わすたびに感じてきたもの。
月明かりに照らされたその眼差し。それは冷酷さではなく、深く静かな思慮と優しさだった。
「どうした? 何かあったのか」
その問いかけに、ひなの胸の奥から張り詰めていたものが崩れた。
ひなは唇を震わせながらうつむく。
「……私、お見合いをしました。子爵家の嫡男、篠宮真澄様と」
「ああ、そうらしいな……。篠宮家との縁談なら、話としては悪くない。だが、顔が晴れないな。いや……むしろ、ひどく怯えているように見える」
その言葉に、ひなは堰を切ったように話し始めた。篠宮の細かな束縛、清白であることを確認されたこと、自分の意思を押し潰すような圧迫感。それに何より、薬が作れなくなるかもしれない。清栄に相談しても、聞く耳を持たない感じだったことも。
「旦那様にこんなことを申し上げるのは……本当に恥ずかしいことなのですが」
うつむいたまま、ひなは言葉を絞り出す。
「私が、その……もしも清白でなければ、篠宮様は結婚を諦めてくださるのではと……。でも……相手もおらず、どうしたらいいのか、途方に暮れて……」
慶一郎は黙って話を聞いていた。その沈黙が、ひなにはひどく恐ろしかった。
しかし、次に発した彼の言葉は意外なものだった。
「……そこまで嫌なら、無理に行く必要はない。だが、本当にそれでいいのか?」
ひなは迷わず答えた。
「はい。私は、あの方とは結婚したくありません」
再びしばらくの沈黙が流れたあと、慶一郎はぽつりと呟いた。
「……その相手が、俺ではだめだろうか?」
「え……?」
ひなは目を見開いた。
優しく温かみを帯びた声で。
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。
もしかして聞き間違いだっただろうか?
慶一郎は旦那様。身分も立場も違う。
「おまえの気持ちを無理に縛ることはしない。だが……今夜だけでも、おまえが望むなら、俺が……」
言葉の意味を理解したとき、ひなはゆっくりと目を伏せた。
これは愛ではない。ただの、同情かもしれない。
それでも、このまま何もせずに篠宮と婚礼を迎えるよりは──。
慶一郎になら……身を委ねてもいい。そう思えた。
ひなは、小さく首を縦に振った。
涼やかな夜気の中、その人影に気づいたひなの胸が、一気に波打った。
「……旦那様」
縋るようにその名を呼んだとき、自分でも驚くほど声が震えていた。
(どうして……こんな時間に、ここに?)
慶一郎は足を止め、ひなのほうを静かに見つめる。
その表情には驚きと、わずかな安堵のようなものが浮かんでいた。
(……やっぱり、この方は)
世間では、冷たい人だと噂されている。
けれど、女中の皆が口々に言っていた──噂にすぎない、と。
数年仕えてきて、ひな自身にもわかる。
日々の中で、目を合わせ言葉を交わすたびに感じてきたもの。
月明かりに照らされたその眼差し。それは冷酷さではなく、深く静かな思慮と優しさだった。
「どうした? 何かあったのか」
その問いかけに、ひなの胸の奥から張り詰めていたものが崩れた。
ひなは唇を震わせながらうつむく。
「……私、お見合いをしました。子爵家の嫡男、篠宮真澄様と」
「ああ、そうらしいな……。篠宮家との縁談なら、話としては悪くない。だが、顔が晴れないな。いや……むしろ、ひどく怯えているように見える」
その言葉に、ひなは堰を切ったように話し始めた。篠宮の細かな束縛、清白であることを確認されたこと、自分の意思を押し潰すような圧迫感。それに何より、薬が作れなくなるかもしれない。清栄に相談しても、聞く耳を持たない感じだったことも。
「旦那様にこんなことを申し上げるのは……本当に恥ずかしいことなのですが」
うつむいたまま、ひなは言葉を絞り出す。
「私が、その……もしも清白でなければ、篠宮様は結婚を諦めてくださるのではと……。でも……相手もおらず、どうしたらいいのか、途方に暮れて……」
慶一郎は黙って話を聞いていた。その沈黙が、ひなにはひどく恐ろしかった。
しかし、次に発した彼の言葉は意外なものだった。
「……そこまで嫌なら、無理に行く必要はない。だが、本当にそれでいいのか?」
ひなは迷わず答えた。
「はい。私は、あの方とは結婚したくありません」
再びしばらくの沈黙が流れたあと、慶一郎はぽつりと呟いた。
「……その相手が、俺ではだめだろうか?」
「え……?」
ひなは目を見開いた。
優しく温かみを帯びた声で。
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。
もしかして聞き間違いだっただろうか?
慶一郎は旦那様。身分も立場も違う。
「おまえの気持ちを無理に縛ることはしない。だが……今夜だけでも、おまえが望むなら、俺が……」
言葉の意味を理解したとき、ひなはゆっくりと目を伏せた。
これは愛ではない。ただの、同情かもしれない。
それでも、このまま何もせずに篠宮と婚礼を迎えるよりは──。
慶一郎になら……身を委ねてもいい。そう思えた。
ひなは、小さく首を縦に振った。