あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 夜も深まり、虫の音さえも聞こえなくなった午前二時。
 ひなは慶一郎の部屋へと招かれていた。
 障子越しに差し込む月明かりだけが、ぼんやりと室内を照らしている。

 ふたりで寝台(ベッド)の上に並んで座ると、敷台(マット)が軋み、微かな音が静寂を破った。
 洋式の寝台の慣れない感触に、ひなの背筋は自然とこわばる。
 肩先が触れそうな距離に慶一郎の体温を感じ、胸の奥がひそかに跳ねた。

「……本当に、いいんだな?」

 低い声で、慎重に問われる。
 これはもう、後戻りのできない夜だという最後の確認だった。
 ひなは唇を引き締め、小さくうなずく。
 
「はい……」

 返事と同時に肩をぐっと抱かれ、距離が縮まる。
 掌が、あたたかい。

「俺も男だ。……途中で辞められないかもしれん」

 その言葉で、ひなの身体がさらにこわばる。
 しかし迷っている時ではない。
 慶一郎の心づかいに感謝しながら、もう一度、今度は強くうなずく。

 慶一郎は無言のまま、そっとひなを押し倒す。
 仄暗い中で目が合い、潤んだ憂いのある眼差しが、まっすぐにひなを見つめていた。
 そしてその顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 ひなは唇を寄せられるのかと目を閉じる。
 けれど──触れたのは、頬だった。

(……そうよね。これは、愛のある行為ではないから)

 期待してしまった自分が恥ずかしくて、心がじくりと痛んだ。
 それでも、これが自分の選んだ道なのだと、ひなは唇を引き結んだ。

 月明かりが差し込む部屋。庭の風鈴が、かすかに涼やかな音を立てていた。
 その音にかき消されるように、ひなの喉から漏れた吐息が微かに揺れる。
 二人の間に遮るものは何もなくなり、互いの肌がぴったりと触れ合う。

(旦那様……あたたかい……)

 慶一郎はゆっくりと、優しく全身を愛撫する。 
 震えながらも、瞳が潤みながらも、ひなはその愛を全身で受け止める。
 
「怖くないか?」

 慶一郎が訊ねる。ひなは高揚しながらも、彼の目を見返し震える声で答えた。
 
「……だいじょうぶ、です」

 そう言うと、慶一郎の熱く硬くなったものが、あてがわれる。
 焦らすようになぞられ、ゆっくりとひなの奥へと沈んでいき──。
 やがて二人は、高く、果てた。
 
 快楽と、鈍く残る痛み。
 その狭間で意識は霞み、頭がぼんやりしていた。

 慶一郎が名残惜しそうに腰を引くと、彼の熱がぬるりと抜けていく。
 その瞬間、敷布に破瓜の証が点々と滲んだ。
 
 鮮やかなその痕に、二人の視線が同時に向く。
 慶一郎の目が、一瞬だけ陰るのが見えた。
 喜びでも、満足でもない……まるで、ひどく申し訳なさそうな、そんな目をしていた。
 その視線に触れた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。

「……すまない。無理をさせたか」

 喉の奥で震えるような声だった。
 どこまでも真摯で、どこまでも優しくて、胸が痛むほどだった。

 ひなはゆっくりと首を横に振る。
 確かに痛かった。でも、あの痛みは、彼とつながった証だ。
 自分で選んだことなのだ。

「いえ……大丈夫です」

 そう言いながら、ひなもまた、敷布に赤く滲んだ証を見つめていた。
 まるで心に何かを刻まれたような気がして、言葉にはできない感情が胸の奥で膨らんでいく。

 ──これで、目的は果たした。
 そう、思った。
 けれど、すぐに否定する声が胸の中から響いた。

 まだだ。
 終わっていない。
 篠宮家との縁談が破談にならなければ、すべては無意味になる。

 そんなひなの迷いを知ってか知らずか、慶一郎が、ぽつりと囁く。

「……おまえが望むなら、一生、この家にいてもいい」
 
 耳元に、思いがけない言葉が落ちる。

「女中としてでも、なんでもいい。おまえが……笑って生きていけるなら、それでいい」

 それは、告白でも、懇願でもなかった。
 ただひなを大切に思う一人の男の、静かな祈りのようだった。

 その言葉が、ひなの胸にじんわりと染み渡っていく。
 肩の力がふっと抜けて、ひなは涙をこぼした。

「……ありがとう、ございます……」

 心に溜まっていたものが、(ほど)けていくのを感じた。
 これでいいのだと、自分に言い聞かせた。篠宮との縁談も──もう、進めなくていいのだと。

 結婚は、もう叶わないかもしれない。
 けれど、それでもいい。自分には薬師としての道がある。誰かを癒すことができるのなら、それだけで生きていける気がした。

 しばらくの沈黙ののち、慶一郎はひなの肩にふわりと浴衣をかける。
 乱れた髪を整えるように、そっと頭に手を添えて撫でる。
 
「ひな。……俺ができるのは、ここまでだ」

 その声に、一瞬にして突き放された気がした。
 けれど、これが自分の選んだ道なのだと、思い直す。

「……はい」

 ひなも、小さく、だがしっかりと返事をする。

「明日から出張で、一週間ほど家を空ける」
「そうなのですね。……お気をつけて」

 慶一郎は、しばらくなにか考えるような仕草をした後、ひなに問いかける。

「篠宮と次に会うのは、いつだ?」
「……三日後です」

 三日後。篠宮と顔を合わせれば、すべてが決まってしまうかもしれない。
 だが、もうひなは清白の身ではなかった。
 そのことが、すべてを変えるだろう──。

「そうか」

 慶一郎は小さく頷き、ふっと視線を外した。
 言葉にならないなにかが、ふたりの間に流れる。

「……もし、なにかあっても、俺はすぐに助けてやれん。おまえ一人で……できるな?」

 その問いに、ひなは強く迷いのない目で頷いた。

「はい」

 その返事に、慶一郎は目を細め微笑んだ。
 ひなもまた覚悟を決め、そっと目元を拭った。
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