あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
帰宅後、清栄は顔を真っ青にしてひなを睨みつけた。
「ひな……あなた、何をしたの。どれほどのことを、失ったかわかっているの……?」
だが、ひなはもう怯えてはいなかった。
慶一郎とのあの夜のぬくもりが、今も心の奥に残っている。
(それでも、私は──自由を選んだ)
涙をこらえながら、ひなは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。でも、私は……自分の生き方を、自分で選びたかったのです」
それ以上は何も言えず、ひなが口を閉ざしたままじっと頭を下げていると、清栄の苛立ちは頂点に達した。
震える手で扇子を畳に叩きつける。
「……誰なの? 相手は誰なの! 言いなさい!」
怒気を孕んだ声が、部屋の壁に反響する。
山根も居合わせていたが、あまりの剣幕に固まったまま動けずにいた。
それでも、ひなは頭を下げたまま首を横に振るばかりだった。
「申し訳ありません……。それは……申し上げることができません」
「なぜ? あなたのせいで、篠宮家との縁談は破談になったのよ!?」
ひなは、唇を噛んだ。慶一郎の名を口にすれば、清栄は間違いなく激昂する。そして、彼の立場をも脅かしかねない。それだけは、絶対に避けなければならなかった。
「……申し訳ありません。すべて、私の責任です」
「……もう、いいわ」
清栄はすっと立ち上がった。
その目には、ひなへの情などひとかけらもなかった。
「あなたのような、礼儀も責任感もない子を、この家に置いておく理由はありません。いますぐ荷物をまとめて、出て行きなさい」
凍るような声だった。
「大奥様……それは、あまりにも無慈悲では……!」
山根が間に入る。ひなに、もう帰る場所がないことは、山根も知っている。
「あなたの顔など、もう二度と見たくありません。連れていきなさい」
冷たく突きつけられた言葉に、ひなは何も言い返せなかった。
反論の余地など、最初から与えられていないのだと悟る。
山根に促されるまま、女中部屋へと戻っていくしかなかった。
ほかの女中たちは皆持ち場に出ていて、部屋は静まり返っていた。
ひなはその静けさの中、清栄から与えられた上等な着物を脱ぎ、一礼するような仕草で丁寧に衣桁へかける。
化粧を落とし、見慣れた地味な着物に着替えると、手早く荷物をまとめはじめた。
「ひな……! 本当に、出ていくつもりなの?」
山根の声は震えていた。
ひなは手を止めず、ただ小さく微笑んだ。
「私は、もうここにはいられません。お嫁にも……きっと行けないでしょうし」
「でも、一晩経てば──大奥様も落ち着かれるはずよ。今は怒りに任せていらっしゃるだけで……」
それでもひなは首を振る。
瞳に静かな決意を宿しながら、きっぱりと告げた。
「私がここにいれば、旦那様にもご迷惑がかかります」
「旦那様……? どうしてそこで旦那様が出てくるの……?」
山根の声が、どこか焦りを含んで揺れた。
「ひな、あんたまさか……」
けれど、ひなは何も言わない。ただ一度、はにかむように口元を綻ばせると、引き出しにしまってあった塗り薬を取り出す。
それは、慶一郎のために調合した、最後の一つだった。
ひなはそれを、戸惑う山根の手のひらにそっと押しつける。
「……山根さん。この薬を、旦那様に渡してほしいんです」
「ひな……!」
山根の目が潤む。けれど、ひなはそれに背を向けるように風呂敷を手に取った。
慶一郎は今、遠方へ出張中だ。
戻ってくるのは四日後──もう会うことはない。
「薬は最後の一つです。……『ごめんなさい』と、『ありがとう』、その二つだけ、お伝えください」
「どこへ行くつもり……?」
その問いにも、ひなは答えることができなかった。
夕暮れが迫るなか、ひなは小さな風呂敷包みだけを抱えて屋敷をあとにした。
その背中に、何ひとつ未練を残すまいとするように──。
「ひな……あなた、何をしたの。どれほどのことを、失ったかわかっているの……?」
だが、ひなはもう怯えてはいなかった。
慶一郎とのあの夜のぬくもりが、今も心の奥に残っている。
(それでも、私は──自由を選んだ)
涙をこらえながら、ひなは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。でも、私は……自分の生き方を、自分で選びたかったのです」
それ以上は何も言えず、ひなが口を閉ざしたままじっと頭を下げていると、清栄の苛立ちは頂点に達した。
震える手で扇子を畳に叩きつける。
「……誰なの? 相手は誰なの! 言いなさい!」
怒気を孕んだ声が、部屋の壁に反響する。
山根も居合わせていたが、あまりの剣幕に固まったまま動けずにいた。
それでも、ひなは頭を下げたまま首を横に振るばかりだった。
「申し訳ありません……。それは……申し上げることができません」
「なぜ? あなたのせいで、篠宮家との縁談は破談になったのよ!?」
ひなは、唇を噛んだ。慶一郎の名を口にすれば、清栄は間違いなく激昂する。そして、彼の立場をも脅かしかねない。それだけは、絶対に避けなければならなかった。
「……申し訳ありません。すべて、私の責任です」
「……もう、いいわ」
清栄はすっと立ち上がった。
その目には、ひなへの情などひとかけらもなかった。
「あなたのような、礼儀も責任感もない子を、この家に置いておく理由はありません。いますぐ荷物をまとめて、出て行きなさい」
凍るような声だった。
「大奥様……それは、あまりにも無慈悲では……!」
山根が間に入る。ひなに、もう帰る場所がないことは、山根も知っている。
「あなたの顔など、もう二度と見たくありません。連れていきなさい」
冷たく突きつけられた言葉に、ひなは何も言い返せなかった。
反論の余地など、最初から与えられていないのだと悟る。
山根に促されるまま、女中部屋へと戻っていくしかなかった。
ほかの女中たちは皆持ち場に出ていて、部屋は静まり返っていた。
ひなはその静けさの中、清栄から与えられた上等な着物を脱ぎ、一礼するような仕草で丁寧に衣桁へかける。
化粧を落とし、見慣れた地味な着物に着替えると、手早く荷物をまとめはじめた。
「ひな……! 本当に、出ていくつもりなの?」
山根の声は震えていた。
ひなは手を止めず、ただ小さく微笑んだ。
「私は、もうここにはいられません。お嫁にも……きっと行けないでしょうし」
「でも、一晩経てば──大奥様も落ち着かれるはずよ。今は怒りに任せていらっしゃるだけで……」
それでもひなは首を振る。
瞳に静かな決意を宿しながら、きっぱりと告げた。
「私がここにいれば、旦那様にもご迷惑がかかります」
「旦那様……? どうしてそこで旦那様が出てくるの……?」
山根の声が、どこか焦りを含んで揺れた。
「ひな、あんたまさか……」
けれど、ひなは何も言わない。ただ一度、はにかむように口元を綻ばせると、引き出しにしまってあった塗り薬を取り出す。
それは、慶一郎のために調合した、最後の一つだった。
ひなはそれを、戸惑う山根の手のひらにそっと押しつける。
「……山根さん。この薬を、旦那様に渡してほしいんです」
「ひな……!」
山根の目が潤む。けれど、ひなはそれに背を向けるように風呂敷を手に取った。
慶一郎は今、遠方へ出張中だ。
戻ってくるのは四日後──もう会うことはない。
「薬は最後の一つです。……『ごめんなさい』と、『ありがとう』、その二つだけ、お伝えください」
「どこへ行くつもり……?」
その問いにも、ひなは答えることができなかった。
夕暮れが迫るなか、ひなは小さな風呂敷包みだけを抱えて屋敷をあとにした。
その背中に、何ひとつ未練を残すまいとするように──。