あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 *

 数日後。慶一郎が帰邸したのは、雨の匂いが強く立ちこめる夕刻だった。数日間の出張を終え、やっと自宅でゆっくりできる。またひなに薬を塗ってもらおう。薬湯を煎じてもらい、ぐっすり眠れるように──そんな穏やかな期待を胸に玄関をくぐった。しかし、迎えの姿がないことにふと違和感を覚えた。

「……ひなはどこだ?」

 通りかかった女中に声をかけるが、彼女は目を伏せたまま答えない。
 まるで何かを恐れているような、重苦しい沈黙。慶一郎は眉をひそめた。

 すると、奥から女中頭の山根が小走りでやってきた。
 その顔は明らかに緊張にこわばっており、手に何かを握っている。

「旦那様……。これを、ひなが……」

 山根が差し出したのは、塗り薬の容器だった。
 置き手紙を用意する間もなく、ひなはせめてもの気遣いとして、この薬だけを託していったという。

「……どういうことだ?」

 慶一郎の声が低く落ちる。
 山根は視線をさまよわせながら、ためらいがちに答えた。

「お見合いが……破談になったのでございます」

 その一言に、慶一郎は思わず安堵の息を漏らした。
 ひなは目的を果たしたのだ。己の身を犠牲にしてでも、縁談を断ち切った。
 その相手が自分だったこともあり、肩の荷が降りたような気分だった。
 だが、すぐに山根の口から続いた言葉が、彼の胸に冷水を浴びせた。

「ただ、そのことで大奥様がたいそうお怒りになりまして……。ひなは、責任を感じて……もう、ここには……」

 言い終わらぬうちに、慶一郎は踵を返し、清栄のいる奥座敷へと向かった。

「母上! どういうことですか!?」

 襖を開け放ち、声を荒げる。
 だが清栄は、息子の怒りなど意にも介さず、静かな口調で答えた。

「見合いの話はなくなりました。あの子が、自分は清白ではないと。篠宮様はたいそうお怒りになられてね」

 ひなにとってそれは、未来を手放す覚悟だっただろう。
 慶一郎は胸の奥で拳を握る。自分のせいで彼女が背負ったものの重さに、心がきしむ。

「投資の話も、もちろん白紙になりました」
「投資……!? まさか、ひなを政略結婚に利用したのですか!?」

 思わず問いただすと、清栄は冷笑すら浮かべたように、肩をすくめる。

「何を言っているの、慶一郎。今に始まったことではないでしょう? 誰のおかげで早乙女製薬が潤っているのか……あなた、まだわかっていなかったのね」
「まさか……今までずっと……!」

 彼の脳裏に、これまで縁談を勧められていた女中たちの顔がよぎった。
 清栄は、縁を繋ぐのが好きなのだと語っていた。だがその裏には、企業を守るという冷徹な意図があったのだ。

 ──母は、すべてを計算していた。
 ぞっとするような現実に気づきながらも、慶一郎の心は結局ただ一つの問いに戻っていく。

「……それで、ひなは今どこに?」

 すると清栄は、わずかに眉をひそめた。だがその口調は、相変わらず冷たかった。

「責任を感じたのでしょうね。自分から荷物をまとめて、出て行きましたよ」

 言葉が耳に届いた瞬間、慶一郎の背筋を冷たい汗が伝った。
 ひなが、自らの意思で屋敷を去った──その現実が、強烈な喪失感となって襲ってくる。
 
「……今すぐ部下を集めて捜索します。町でも、下宿屋でも構わない。どこに行ったのか、手がかりを探します」
「何をそんなに慌てているの? ああ、薬のことかしら? あなたのその傷は、あの子の薬しか効かないものねぇ」

 清栄は皮肉めいた声を重ねた。

「でも、安心してちょうだい。調合方法はちゃんと写させてもらいました」
「……写させて、もらった?」

 慶一郎は息を呑む。
 ひなは、あの薬の調合法だけは簡単に譲れないと言っていた。彼女の誇りであり、守るべき家業でもあったはずだ。その彼女が、そんな重要なことを軽々と許すとは思えない。

 ──ひなに許可は取ったんですか。

 そう問い詰めたい気持ちが喉までせり上がったが、口に出すことができなかった。
 否と答えられることが、わかっていた。答えを聞くのが恐ろしい。
 まさか自分の母親が、ここまでのことをする人間だったとは──。

「もう、あの子のことは忘れなさい、慶一郎。調合方法があるなら、それで充分でしょう?」

 清栄の冷たい言葉が、氷のように突き刺さる。
 だが慶一郎は、きっぱりと口を開いた。

「……ひなを、探します」

 その宣言に、清栄の目がわずかに細められる。

「必要ないと言っているのよ。あなたには、そんな暇はないはずよ。あなたの結婚の話も、そろそろ進めないといけないしねぇ」

 慶一郎は奥歯を噛みしめた。

「彼女が、どれだけこの家のために尽くしてきたか……母上も、ご存知のはずです。見合いがどうこうという問題ではない。今、あの子を放っておくことのほうが、よほど──罪です」

 一瞬の沈黙の後、清栄は唇を歪めた。

「……好きになさい。ただし、もし見つけたとしても──あの子に、早乙女家の敷居を再び跨がせることは決してありません」

 その宣告に、慶一郎は言葉を返さなかった。
 ただ無言で頭を下げ、踵を返して部屋を後にした。

 廊下に出た途端、背中に痛みが走り思わず片膝をつく。
 雨が近いせいか、古傷が疼いている。
 だが、こんなところで立ち止まっている場合ではない。ひなを見つけ出すまでは──。

 慶一郎は痛みに耐えながら立ち上がり、家令を呼びつけて指示を飛ばした。
 即座に屋敷中が動き始める。静かだった夜が、急に慌ただしくなっていく。
 だが、何日経っても、ひなの行方はわからなかった。

 捜索は町の外にまで広がり、ひなが元々住んでいた長屋、寺や教会、工場の下働きまで手を尽くしたが、どこにもひなはいなかった。

 ある晩、冷たい雨が降る中、慶一郎はふと思い立ち、庭に出た。
 かつて、ひなが丹念に手をかけていた薬草園。
 そこには、もう誰の手も入っていない草花が雨に濡れ、うなだれるようにしおれていた。
 手入れの行き届かなくなった草花が、何かを待っているように見えて──慶一郎は、言いようのない寂しさに襲われた。
 
(ひな……どこへ行ったんだ……)

 冷えた手で、慶一郎はそっと花に触れた。
 その掌には、今も微かに、彼女のぬくもりが残っている気がした。
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