あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 そうして生まれた慶翔は、今年で三歳になる。ひなの隣で、頬にご飯粒をつけながら朝食を食べている姿を見ると、ひなはホッとする。やんちゃ盛りの男の子で、山道を駆けては転び、泥だらけになって帰ってくるような元気な子に育ってくれた。ひなは、そんな息子がいとおしくてたまらない。ただ、時折ふとした拍子に、思う。
 目元の形も、笑った時の口元も、どうしようもなく──慶一郎に似ている。

(……私は、もうこの子と、この地で生きていくと決めたのに)

 そう自分に言い聞かせながらも、過去の記憶は心のどこかでうずくまま、眠り続けていた。
 なのに──。
 
 何の前触れもなく、その日はやってきた。
 市場で、あの人と再会してしまった。

「……ひな……?」

 そう名前を呼ばれた瞬間、時間が止まったようだった。
 でも、何もなかったふりをして、慶翔の手を引いて逃げた。
 まるで追われる罪人のように──。

 ひなの胸には、冷たい汗がじっとりと滲んでいた。

(──どうして旦那様がここに?)

 ひなは、しゃがみ込んだまま考える。涙がじわりと滲んできて、慌てて慶翔に気づかれないように拭う。幼い息子の前で、困惑した姿を見せるわけにはいかなかった。

「……おかあさん。買い物は?」

 慶翔の言葉に、ひなはハッとして顔を上げる。
 嘉一の代わりに買い物を頼まれていたことを、すっかり忘れていた。
 息子の手を引いて、こっそりと表通りへ戻り辺りを見回す。慶一郎の姿はないようだ。
 ほっと胸を撫で下ろしたひなは、見間違いだったのかもしれないと自分に言い聞かせながら、買い物を終えて湯乃谷屋へ戻った。

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