あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 湯乃谷屋へ戻り買い物したものを台所に置き、約束どおり慶翔に干し芋のおやつをあげた。
 女官の仕事に戻ると、さっそく客を出迎えていた女将に呼ばれた。
 
「ああ、ひなちゃん! このお客様に薬湯の説明したってぇ」

 女将の向こう側にいた人物に、ひなは息を呑んだ。胸が一瞬、強く脈打つ。
 そこには、先ほど夢かと思われた慶一郎がいた。
 まさか、うちの宿だったとは。
 
「ひなちゃんの薬湯の噂聞きつけて、わざわざ関東からお越しくださったんやて。なぁ、嬉しいことやないの」
「は、はぁ……」 
 
 慶一郎は、濃紺の外套を脱いでひなの方を向いた。
 記憶の中の姿と何も変わらない。けれど、どこか疲れたような目。数日前から痛む古傷に耐えかねて、部下の勧めでこの山奥の湯治場に訪れたという。
 慶一郎は「しばらく療養させてもらう」と告げた。

(どうして、今さら……。どうして、ここに……)

 心の中で問いかけても、答えは返ってこない。
 ただ、慶一郎がここにいるという現実だけが、ひなの世界を静かに揺さぶっていた。
 女将は突然の長期滞在に少し驚いたものの、上品な物腰の男に対して断る理由はなかった。

「いい時期に来ましたな。雪解けの湯は格別やし、薬湯もよう効きますよ」

 女将が穏やかに応じたそのとき、慶一郎の視線が、ひなの方へ向けられた。

「……ひな。久しぶりだな」

 その声に、ひなの心臓がさらに大きく跳ねた。
 耳の奥で、時間の波が崩れたような感覚がした。
 気づかぬふりをして背を向けようとしていたのに、名前を呼ばれて足がすくんだ。

「あらまぁ。ひなちゃん、お知り合い?」

 女将の問いかけに、ひなは息を詰めたまま、小さく頷く。

「……はい」

 それ以上、言葉は出てこなかった。
 口を開けば、心の奥から何かがあふれてしまいそうで。

 唇を噛みしめながら、ひなはかすかに頭を下げた。
 動揺を悟られないように、必死で呼吸を整える。
 
 宿帳に彼の手が伸びる。筆を取った指先も、文字も変わらず美しかった。
 そこに記された名前を見て、ひなの背筋に冷たいものが走る。

 ──早乙女慶一郎。

 それを見た女将の表情が、わずかに強張るのが分かった。
 やがて何かを察したように、そっとひなの背を撫でる。

「……ご贔屓にしてもろて、ありがたいことやな」

 そう言って、女将は微笑んだ。問い詰めることも詮索することもなく、ただ「わかっている」とでも言うような、あたたかいまなざしだった。

 ひなの胸が、痛くなる。
 逃げられないのだと、その優しさが教えてくる。
 客として来た彼を、追い返すことはできない。宿の従業員として、冷静に接するしかなかった。

「どうぞ、こちらでございます」

 わずかに手が震えるのを隠すようにして、ひなは慶一郎の荷物を預かり足を踏み出す。心は騒いでいた。だが、それを悟られてはいけない。

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