あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
湯乃谷屋の中でも、案内した椿の間は特別な部屋だった。
二階の最奥にある角部屋で、隣室とは一間分ほど空いており他の客間と隔てられている。
昔は貴人のために設えられたという、数寄屋造りの上等な部屋だ。
戸を開けた瞬間、ふわりと檜の香りが鼻をくすぐった。障子越しに差し込む陽の光が、部屋全体をやわらかく包んでいる。客室は八畳ほどの広さで、床の間には淡い色の椿を描いた掛け軸が掛けられていた。
窓際には低い茶卓と、深く腰を落とせるような座椅子が二つ並んでいる。窓を開けると、斜面を利用して建てられた湯乃谷屋ならではの絶景が望めた。麓の町並みが小さく広がり、視線をその向こうに巡らせると、陽の光に反射した銀色の海が見える。風の通りもよく、四季折々の自然が味わえる人気の部屋だった。
「……いい宿だな」
窓の外に視線をやったまま、慶一郎がぽつりと呟く。
「ありがとうございます」
ひなは深く頭を下げた。せめて、このまま何事もなく客と従業員の関係のままでいられたら。そう願わずにはいられなかった。
心を落ち着けながら、食事の時間や温泉の場所、薬湯の効能などを一通り説明する。定められた作法に則った、丁寧でそつのない応対。きっと、客としての彼もそれを望んでいるはず。
「では、失礼いたします」
立ち上がり部屋を出ようとした、そのときだった。
「ひな」
名前を呼ばれて、動きが止まる。背中に、慶一郎の視線が突き刺さるようだった。
「……探したぞ」
その言葉に、どくんと心臓が波打つ。
返す言葉が見つからない。過去のすべてが、一瞬にして押し寄せてくる。逃げたことも、黙って姿を消したことも、今この瞬間、帳消しにはならないとわかっていた。
「……」
ただ黙って、うつむいたまま慶一郎の言葉を待つ。
「まさか、このような場所にいたとはな。縁のある地なのか?」
問いかけは穏やかだった。責めるようでも、怒っているようでもない。それが、かえってひなの胸を締めつけた。
「……ここの、女将さんが、亡き母の友人で」
声が震えないように、ひなは気をつけながら答えた。
「そうか」
慶一郎はそれ以上は何も言わず、静かに頷いた。追い詰めるような態度ではなかった。それなのに逃げた自分が恥ずかしくて、顔を上げられない。
「だ……お客様は、なぜここに?」
旦那様、と言いかけて、慌てて言い直す。
もう、あの屋敷の主従ではない。彼は「旦那様」ではなく、「一人の客」。
自分もまた、ただの従業員。線引きを守らなければ。
「おまえを探しに」
たった一言に、心臓が早鐘のように鳴り響く。
しかし、慶一郎は視線を外して、ふっと微笑んだ。
「……本当のことを言うと、おまえと再会したのは偶然だ。もう半分、諦めかけていた」
窓際に立つ彼の横顔は、どこか疲れたようでもあり、懐かしさを帯びていた。
眼鏡の奥の目元には、薄い隈が滲んでいた。でもその眼差しは相変わらず強く、まっすぐで。
ひなの胸に、忘れかけていた痛みが徐々に広がっていく。
「ここに来たのは、療養のためだ。おまえが残してくれた薬がなくなってから、また傷が痛むようになってな」
その言葉に、ひなは心の中で「ああ、やはり」と呟いた。
女中頭の山根に託した塗り薬は、たった一つだった。あれでは、ふた月ともたなかっただろう。
「……申し訳ない。母が、おまえの薬方帳を勝手に写したようでな」
思いもよらない言葉に、ひなはハッと顔を上げる。
「あの塗り薬を早乙女製薬で作ってみたが、どういったことかまったく効かない。やはり、あの薬はひなにしか作れないのだと悟ったよ」
嬉しいはずの言葉。なのに、素直に喜べなかった。
あの薬は、ひなの両親が遺してくれた特別な薬。薬方帳どおりに作っても、効果が得られないようになっている。最後の一手間の方法は、ひなの頭の中だけにある。
「しかし、傷の痛みと連日の激務で少々疲れが溜まってな。医者に休むよう言われた。ここには二ヶ月ほど世話になるつもりだ」
「二ヶ月……ですか?」
思わず聞き返してしまった。
たった今、客としての彼を迎え入れると腹を括ったばかりなのに。二ヶ月もの長逗留など、予想外だった。だが、それを拒める立場ではない。
「そうだ。何か問題でも?」
穏やかな問いかけに、ひなはとっさに笑顔を作った。
「いえ……ご贔屓に、ありがとうございます」
そして、深く頭を下げた。心の中では波が立ち続けているのに、それを見せないように。
不安を押し殺しながら、ひなはその場を後にしようとする。
だが部屋を去ろうとしたその瞬間、慶一郎に手首を掴まれた。
二階の最奥にある角部屋で、隣室とは一間分ほど空いており他の客間と隔てられている。
昔は貴人のために設えられたという、数寄屋造りの上等な部屋だ。
戸を開けた瞬間、ふわりと檜の香りが鼻をくすぐった。障子越しに差し込む陽の光が、部屋全体をやわらかく包んでいる。客室は八畳ほどの広さで、床の間には淡い色の椿を描いた掛け軸が掛けられていた。
窓際には低い茶卓と、深く腰を落とせるような座椅子が二つ並んでいる。窓を開けると、斜面を利用して建てられた湯乃谷屋ならではの絶景が望めた。麓の町並みが小さく広がり、視線をその向こうに巡らせると、陽の光に反射した銀色の海が見える。風の通りもよく、四季折々の自然が味わえる人気の部屋だった。
「……いい宿だな」
窓の外に視線をやったまま、慶一郎がぽつりと呟く。
「ありがとうございます」
ひなは深く頭を下げた。せめて、このまま何事もなく客と従業員の関係のままでいられたら。そう願わずにはいられなかった。
心を落ち着けながら、食事の時間や温泉の場所、薬湯の効能などを一通り説明する。定められた作法に則った、丁寧でそつのない応対。きっと、客としての彼もそれを望んでいるはず。
「では、失礼いたします」
立ち上がり部屋を出ようとした、そのときだった。
「ひな」
名前を呼ばれて、動きが止まる。背中に、慶一郎の視線が突き刺さるようだった。
「……探したぞ」
その言葉に、どくんと心臓が波打つ。
返す言葉が見つからない。過去のすべてが、一瞬にして押し寄せてくる。逃げたことも、黙って姿を消したことも、今この瞬間、帳消しにはならないとわかっていた。
「……」
ただ黙って、うつむいたまま慶一郎の言葉を待つ。
「まさか、このような場所にいたとはな。縁のある地なのか?」
問いかけは穏やかだった。責めるようでも、怒っているようでもない。それが、かえってひなの胸を締めつけた。
「……ここの、女将さんが、亡き母の友人で」
声が震えないように、ひなは気をつけながら答えた。
「そうか」
慶一郎はそれ以上は何も言わず、静かに頷いた。追い詰めるような態度ではなかった。それなのに逃げた自分が恥ずかしくて、顔を上げられない。
「だ……お客様は、なぜここに?」
旦那様、と言いかけて、慌てて言い直す。
もう、あの屋敷の主従ではない。彼は「旦那様」ではなく、「一人の客」。
自分もまた、ただの従業員。線引きを守らなければ。
「おまえを探しに」
たった一言に、心臓が早鐘のように鳴り響く。
しかし、慶一郎は視線を外して、ふっと微笑んだ。
「……本当のことを言うと、おまえと再会したのは偶然だ。もう半分、諦めかけていた」
窓際に立つ彼の横顔は、どこか疲れたようでもあり、懐かしさを帯びていた。
眼鏡の奥の目元には、薄い隈が滲んでいた。でもその眼差しは相変わらず強く、まっすぐで。
ひなの胸に、忘れかけていた痛みが徐々に広がっていく。
「ここに来たのは、療養のためだ。おまえが残してくれた薬がなくなってから、また傷が痛むようになってな」
その言葉に、ひなは心の中で「ああ、やはり」と呟いた。
女中頭の山根に託した塗り薬は、たった一つだった。あれでは、ふた月ともたなかっただろう。
「……申し訳ない。母が、おまえの薬方帳を勝手に写したようでな」
思いもよらない言葉に、ひなはハッと顔を上げる。
「あの塗り薬を早乙女製薬で作ってみたが、どういったことかまったく効かない。やはり、あの薬はひなにしか作れないのだと悟ったよ」
嬉しいはずの言葉。なのに、素直に喜べなかった。
あの薬は、ひなの両親が遺してくれた特別な薬。薬方帳どおりに作っても、効果が得られないようになっている。最後の一手間の方法は、ひなの頭の中だけにある。
「しかし、傷の痛みと連日の激務で少々疲れが溜まってな。医者に休むよう言われた。ここには二ヶ月ほど世話になるつもりだ」
「二ヶ月……ですか?」
思わず聞き返してしまった。
たった今、客としての彼を迎え入れると腹を括ったばかりなのに。二ヶ月もの長逗留など、予想外だった。だが、それを拒める立場ではない。
「そうだ。何か問題でも?」
穏やかな問いかけに、ひなはとっさに笑顔を作った。
「いえ……ご贔屓に、ありがとうございます」
そして、深く頭を下げた。心の中では波が立ち続けているのに、それを見せないように。
不安を押し殺しながら、ひなはその場を後にしようとする。
だが部屋を去ろうとしたその瞬間、慶一郎に手首を掴まれた。