あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
数刻後──そんなひなのもとへ、ひとりの女性が訪ねてきた。
年の頃は五十を越えていようかという、背筋の伸びた女性だった。
着物の織りも仕立ても上等で、かすかに香の匂いがした。
「早乙女家の女中頭をしております、山根と申します。突然のお訪ね、失礼いたします」
格式ある家の使いであるということは容易に想像できた。
その女中頭が一体自分になんの用だろうと、ひなは驚きながらも頭を下げる。
「あなた様が、薬草でお薬を調合なさっていると伺いましたが」
「はい、そうです」
「実は……旦那様──早乙女慶一郎様の傷に、あなたの薬がたいそうよく効いたそうで」
「……それは光栄なことです。お役に立てたのなら、何よりです」
早乙女慶一郎という名は、ひなも耳にしたことがある。
子爵家の若き当主にして元軍人──今は先代の後を継いで製薬会社の社長を務めているのだと。
「はい。そこで、旦那様からのご意向で、そのお薬の製法を、ぜひ買い上げたいとのことでして」
ひなは一瞬、口をつぐんだ。
父と母が、長年試行錯誤を繰り返して作り上げた薬だ。
市場に出回っていない希少な薬草を使い、手間もかかる。
何より、それは両親と積み重ねてきた大切な時間そのものだった。
「申し訳ありません。これは、両親の形見のようなものでして。たとえ大金を積まれましても……簡単にはお譲りできません。それに、この薬には特殊な薬草が必要で、量産には向いていないのです」
山根はわずかに目を細めたが、それ以上は強く求めなかった。
「ではせめて、一度お顔だけでも。大奥様もご挨拶をと仰せでして」
その言葉に、ひなは少し考えた末、頷く。
しかし、すぐに出発することはできなかった。
「申し訳ありません。今、薬草を干しておりまして……手を離すとすべてが駄目になってしまいます」
山根はその様子を静かに見つめ、小さく頷いた。
「かしこまりました。では、日を改めましょう」
山根は、今ある薬だけをひなから購入し、丁寧に一礼する。
そして静かに踵を返し、馬車へと戻っていく。
車輪のきしむ音が小さく響き、やがて遠ざかっていった。
「でも……あの早乙女慶一郎って、冷酷で有名なんでしょう?」
「戦の傷もまだ癒えてないって話よ。そんな人のもとへ、ひなちゃん一人で行かせていいのかしらね……」
主婦たちの言葉が、風に乗って耳に届く。
ひなは不安になるが、それでも子爵家当主のご意向とあらば、背を向けることはできなかった。
年の頃は五十を越えていようかという、背筋の伸びた女性だった。
着物の織りも仕立ても上等で、かすかに香の匂いがした。
「早乙女家の女中頭をしております、山根と申します。突然のお訪ね、失礼いたします」
格式ある家の使いであるということは容易に想像できた。
その女中頭が一体自分になんの用だろうと、ひなは驚きながらも頭を下げる。
「あなた様が、薬草でお薬を調合なさっていると伺いましたが」
「はい、そうです」
「実は……旦那様──早乙女慶一郎様の傷に、あなたの薬がたいそうよく効いたそうで」
「……それは光栄なことです。お役に立てたのなら、何よりです」
早乙女慶一郎という名は、ひなも耳にしたことがある。
子爵家の若き当主にして元軍人──今は先代の後を継いで製薬会社の社長を務めているのだと。
「はい。そこで、旦那様からのご意向で、そのお薬の製法を、ぜひ買い上げたいとのことでして」
ひなは一瞬、口をつぐんだ。
父と母が、長年試行錯誤を繰り返して作り上げた薬だ。
市場に出回っていない希少な薬草を使い、手間もかかる。
何より、それは両親と積み重ねてきた大切な時間そのものだった。
「申し訳ありません。これは、両親の形見のようなものでして。たとえ大金を積まれましても……簡単にはお譲りできません。それに、この薬には特殊な薬草が必要で、量産には向いていないのです」
山根はわずかに目を細めたが、それ以上は強く求めなかった。
「ではせめて、一度お顔だけでも。大奥様もご挨拶をと仰せでして」
その言葉に、ひなは少し考えた末、頷く。
しかし、すぐに出発することはできなかった。
「申し訳ありません。今、薬草を干しておりまして……手を離すとすべてが駄目になってしまいます」
山根はその様子を静かに見つめ、小さく頷いた。
「かしこまりました。では、日を改めましょう」
山根は、今ある薬だけをひなから購入し、丁寧に一礼する。
そして静かに踵を返し、馬車へと戻っていく。
車輪のきしむ音が小さく響き、やがて遠ざかっていった。
「でも……あの早乙女慶一郎って、冷酷で有名なんでしょう?」
「戦の傷もまだ癒えてないって話よ。そんな人のもとへ、ひなちゃん一人で行かせていいのかしらね……」
主婦たちの言葉が、風に乗って耳に届く。
ひなは不安になるが、それでも子爵家当主のご意向とあらば、背を向けることはできなかった。