あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 その夜、慶翔を寝かしつけたあと、ひなは薬箱を持って慶一郎の部屋を訪れた。

「失礼します」

 控えめな声とともに襖を開けると、慶一郎は敷かれた布団の上で、きちんと正座して待っていた。普段は洋装ばかりの彼が浴衣姿でいることに、ひなはわずかに目を見張る。
 初めて見る和装の慶一郎。その佇まいに、胸の奥がどきりと鳴った。

 慶一郎は、無言のまま浴衣の上半身を脱ぎ、ゆっくりと背を向けた。
 その背に刻まれた古い傷痕──あの頃と何一つ変わらず、肌を横切っている。

 ひなは黙って、市販の薬を取り出し、その傷にそっと塗りはじめた。
 広く逞しい背中、そのぬくもり、そして顔が見えないという距離感。
 ふいに、いけない想像が頭をよぎる。

 ──この背中に、すべてを預けてしまえたなら。
 そんな甘い幻想に、思わずかぶりを振って我に返った。

「……なぜ、家を出た」

 低い声で、突然、背中越しに投げかけられた。
 ひなは、思わず手の動きを止める。

「あなたに……迷惑がかかると思ったからです」
「嘘をつくな。……母に、追い出されたのだろう」
「違います。私は、自分の意思で……」

 言い切る前に、ひなは言葉を飲み込んだ。
 清栄が怒って追い出さずとも、篠宮が許さなかっただろう。
 ──どちらにせよ、自分は早乙女家には留まれなかった。
 視線が揺れる。いつの間にか慶一郎が、その様子をじっと見ていた。
 そして、ひとつ深く息を吐く。

「……最初は、同情だった。おまえが望むならと、善意で抱いた。だが、いなくなってから……俺の古傷はまた疼くようになった。ただ、痛みだけが残った」

 薬の匂いが、淡く部屋に立ちこめていた。
 それは、かえって心をざわつかせる香りだった。

「市場でおまえを見かけたとき、幻かと思った。おまえが逃げて、やっぱり夢だったのかと──。だが、ここで再会した時にもっと別のところが……疼いたんだ」

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