あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 声を潜めて呼びながら、旅館の廊下を急ぎ足で探し回る。
 一階のどこにもいない。客間には入らないよう言ってあるし、外に出た様子もない。
 まさか。ひなは、二階への階段を見た。
 階段を上ると、椿の間へ向かう小さな後ろ姿が目に飛び込んできた。

「けいと──っ! ダメ! そっちに行ってはダメよ!」

 思わず、大きな声が出た。普段はめったに叱らないひなの声音に、廊下の空気が一瞬、静まりかえる。
 慶翔は振り返り、きょとんとした目を向けてきた。その手には、小さな風車が握られている。誰かがあやしてくれたのか、それともどこかで見つけてきたのか。
 だが、ひなの視線はその向こうにいる人物へと向いた。

(……っ、慶一郎様……!)

 慶一郎が廊下へ出ていた。

「……けいと?」

 呼ばれたその名に、ひなの心臓が跳ねる。

(どうか、気づかないで。お願い、気づかないで──)

 祈るような思いとは裏腹に、慶一郎の表情にたしかな変化が浮かぶ。

「いま……何と?」

 ひなは咄嗟に答えようとして、喉がつまったように言葉が出なかった。

「……けいと、言ったか?」

 慶一郎の目が細められる。ひなの方へと一歩、踏み出した。

「まさか……俺の“慶”か?」

 重たく落ちたその問いかけに、ひなは唇を噛んだ。
 うつむいて、どうしても目を合わせられない。

「畏れながら……その、一文字を、いただきました……」

 返す声は震えていた。声に出してしまった途端、すべてが確定してしまう気がした。

「……ひな。まさか……俺の子なのか?」
「ち、違います……!」

 瞬時に口をついて出た反射的な否定。そうでなければ、この場を切り抜けられない。

「すみません……仕事中ですので──」

 言い終えるより早く、ひなは慶翔を抱きかかえて身を翻した。
 問い詰められる前に、慶一郎の目から逃げ出すように、その場を離れる。

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