あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 慶翔の体温を胸に感じながら、ひなは走った。喉の奥が焼けつくように熱く、息が詰まる。

(あの人に、知られてはいけない。絶対に)

 たとえ、早乙女の血を引いていたとしても──この子は、あの人の世界に戻してはならない。
 早乙女家に戻ることになれば待っているのは愛ではなく、甘くない現実と、拭いきれない後ろめたさだ。慶翔にとっての父親を奪うことになるかもしれない。
 けれど、いつかこの子の耳に、『望まれなかった子』という言葉が届いてしまったら──そう思うだけで、胸がきしむ。
 ひなは必死で逃げながら、知らず涙が頬を伝っていたことにも、気づかなかった。

「おかあさん、なんで泣いてるの?」

 幼い声に、はっと顔を上げた。
 ひなは慌てて頬をぬぐい、笑みを作る。

「なんでもない、なんでもないのよ……。ごめんね、驚かせたね。……もう、二階には行っちゃだめよ」
「どうして?」
「どうしてって……」

 言葉が詰まり、思わず視線を逸らす。

「そ、そう。早乙女様は、ご病気なの。この宿に病気を治しに来たの。だからね、安静にしていなきゃいけないのよ」
「……でも、けーいちろー、これ作ってくれたよ?」

 慶翔は、小さな手で風車を差し出した。
 紙と楊枝で作られた、素朴な手作りの玩具。風を受けてくるくると回るそれは、どこか懐かしい形をしていた。

「『ありがとう』だけしてくる!」

 そう言い残し、慶翔はひなの制止も聞かず、くるりと背を向けて駆け出していく。

「……あっ、待って!」

 ひなも慌てて追いかけようとするが、その瞬間、別の方向から声が飛んできた。

「ひなちゃーん! 悪いけど、帳場に来てくれる?」

 女将だった。
 仕事に戻らなければ──それが、今の自分の立場だった。

 ひなは慶翔の小さな背を目で追いながら、唇を噛みしめた。
 早く、連れ戻さなければ。慶翔を守れるのは、自分しかいない。
 けれど今は、仕事に戻らなければならない。
 ……あの人に、任せておいても大丈夫だろうか。

 そう思った途端、胸の奥に得体の知れないざらつきが広がった。
 なにが不安なのか、なにに嫉妬しているのか、自分でもわからない。
 迷いなく彼のもとへ駆けていく慶翔の姿が、どこか羨ましくもあった。
 あんなふうに素直に、まっすぐに──かつての自分も、そうだっただろうか。

 さまざまな感情がせめぎ合う中、ひなはひとつ深呼吸をして帳場へと歩を向けた。
 

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