あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 ある夜、慶翔を寝かしつけた後、ひなは温泉に入り縁側で夜風にあたっていた。肌寒さに肩をすくめつつも、その冷たさが熱くこわばった胸の内を少しだけ鎮めてくれるようで、心地よかった。

 そのとき、背後から低い声がかかった。

「おまえも風呂に入ったのか」

 振り返ると、湯上がりの浴衣姿の慶一郎が、廊下に立っていた。湯気の名残をまとった髪が、薄明かりにしっとりと光っている。

「はい。今日は女性のお客様が少なかったので……」

 ひなはそう答えながら、濡れた髪をそっと指先で払った。
 ──ふだんは、皆が寝静まった頃を見計らって湯を借りる。
 少し早い入浴だけで、こんなにも気持ちがほどけるとは思わなかった。
 
「寒くないか」
「平気です……」

 それ以上の言葉が出なかった。
 ただ、彼の顔を見ていると、何かが喉の奥につかえてしまったようで、胸が締めつけられた。
 しばらく、ふたりのあいだに沈黙が流れた。
 湯けむりが薄く漂う廊下に、風にそよぐ葉音と、蛙の声が静かに響いている。
 そろそろ戻らなければ──そう思って、ひなが立ち去ろうとした時、慶一郎が口を開いた。
 
「……あの夜、すまなかった。無理をさせたな」

 ぽつりと落とされた声は穏やかだったが、言葉の端々に戸惑いが滲んでいた。
 ひなは何も言えず、ただ小さく首を横に振った。

「俺は、おまえと慶翔のことを、放っておけない。だから……もう逃げるな」
「……っ、でも、慶翔は……」
「俺の子なんだろう?」

 不意に問われたその言葉に、ひなは答えられなかった。
 以前、同じ問いを向けられたとき──ひなは思わず「違います」と口にしてしまった。
 けれど今は、その言葉が喉の奥で重くのしかかってくる。
 
 「はい」と言えれば、どれほど楽だろう。
 あの夜、自分のわがままで彼にすがった。それを認めてしまえば、すべてが終わる気がした。
 だけど、再び「いいえ」と言えば──慶翔の存在まで否定してしまう気がした。

「なぜ、そんなに頑なに否定する? 慶翔の年齢から察するに、俺の子で間違いないだろう。それとも、おまえは早乙女家を出て、すぐに他の男に抱かれるような女なのか?」
「ち、違います……っ!」

 こみ上げる悔しさと悲しさに、ひなは涙を滲ませる。
 すると、慶一郎はその涙を指でそっと拭い、苦笑した。

「……すまない。おまえがあまりにも頑ななものだから、少し意地悪をした」

 言葉とは裏腹に、その指先はひどく優しかった。
 その優しさに、心の奥が少しずつ緩んでいく。
 ──話を、逸らさなければ。
 そう思いながら、ひなは視線を落とした。

「……慶一郎様には、婚約者がいらっしゃるではありませんか」
「だから、それは母が勝手に──」
「勝手に、でも。大奥様の言葉は絶対です」

 それは、身をもって知っている。
 新聞に載るほどの縁談を、簡単に覆せるはずがない。

「それに……慶翔のことを、どう説明するおつもりですか? 私は……」

 声がだんだんと震えていく。

「私は、あの子を……不義の子などと、言われたらと思うと……っ!」

 ついに胸の内をさらけ出してしまった。
 込み上げた涙が頬をつたう。もう、堪えきれなかった。

「……そうだな。おまえの言うとおりだ」

 その静かな肯定に、ひなはかえって心を締めつけられた。
 突き放された気がして、胸がずきりと痛む。

 このまま慶一郎は清栄の思い通り、婚約者と結婚してしまうのかもしれない。
 そんな不安が、じわじわと胸を蝕んでいく。
 だが──

「婚約者とのことも、なんとか片をつける。それまで……信じて、待っていてくれないか」

 その言葉に、ひなは思わず顔を上げた。
 信じていいのか? 待っていいのか?
 けれどもう、独りで背負いきれる想いではなかった。

「……わかりました。ただ、一つだけ約束してください」
「なんだ?」
「ここにいる間は、従業員とお客様の関係です。……もう、あの夜のようなことはいたしません」

 言い切ったつもりだった。
 けれど、すぐに返ってきた慶一郎の声は、どこかくすぶる火種のような含みを持っていた。

「ここにいる間だけ、だな?」

 はっとして、息をのむ。

「あ……い、今のは、そういう意味では──あっ!」

 腰をぐっと引き寄せられ、ひなはたちまち慶一郎の腕の中に包まれた。
 動揺するひなを見つめ、慶一郎はゆっくりと言葉を重ねた。

「療養が終わったら、覚悟しておけ。何があっても……おまえと慶翔を迎えに行く」

 その強く、たしかな決意に、胸がじんわりと熱くなる。

 もう、逃げられない。
 いや──もう、背を向ける理由なんて、どこにもなかった。
 気づけば彼の言葉が、心に優しく染み込んでいた。
 ようやく自覚したその気持ちに、ひなは小さく頷いた。

「……はい……」

 夜風のようにかすかな声だった。
 けれどそれは、心の奥からこぼれた、確かな想いだった。

 湯治場の夜は静かに更けていく。
 ふたりの間に流れる時間だけが、やわらかく、あたたかく──
 過去の傷を癒すように、そっと寄り添い合っていた。
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