あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

9・告発

 梅雨の気配が忍び寄る午後、湯乃谷屋の前に、黒塗りの馬車が影を落とすように停まった。
 革靴が石畳を打つ音が響く。

「ごめんください」

 穏やかな声音に気づき、女将とひなが玄関に出ると──そこには嫌なほど整った顔の男が立っていた。
 篠宮だった。

「お久しぶりですね、ひなさん」

 ひなは瞬間的に息を呑み、そばにいた慶翔を反射的に自分の背に隠す。
 どうしてここに……?
 なぜ、この場所を……?
 心の中に渦巻く疑念が、胸の奥をざわつかせる。冷や汗がにじむ。

「女将さん、すみません。この方は、私に用があるようです……。この子を……お願いします……」

 言葉を選びながらも、かすかに震える声で言った。
 女将はすぐに何かを察してくれたのか、深く頷いてから慶翔の手を引いて奥へと連れて行く。
 二人の姿が見えなくなったところで、ひなはゆっくりと篠宮の方へ向き直った。

「……ご用件は」
「いやなに、ちょっと近くに用があったものですから、挨拶に来ただけですよ」

 口元には相変わらず笑みを浮かべている。
 けれどその笑顔には、どこか薄気味悪い冷たさが潜んでいた。

「……ぜひ、見てもらいたいものがありましてね」

 その声の下に隠された意図が何なのか、ひなにはまだわからない。
 だが、ただの挨拶で済まないことだけは、直感が告げていた。
 ひなは覚悟を決め、篠宮を応接室に案内した。
 
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