あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 湯乃谷屋で唯一室内が洋風になっている応接室。
 篠宮は洋椅子にゆったりと腰掛け、ポケットから一枚の雑誌の試し刷り(ゲラ)を取り出した。そこには、見出しが踊っていた。

【名門・早乙女家の長男、愛人と隠し子を湯治場に匿う!?】

 心臓が、どくんと音を立てた。視線がページの隅々をなぞる。
 目を覆いたくなるような活字──そこには、ひなの名前も、湯乃谷屋の名称も、そして慶一郎の写真までもが、無慈悲なほどにはっきりと記されていた。

 思わず、ひなは唇を押し当てるようにして口元を手で覆う。
 血の気が引き、全身の体温が急激に下がっていくようだった。

「見合いの席で君が断った時点で、もうどうでもよかったんだ。だがね……これを見てしまったら、黙っていられなかったよ」

 篠宮は、もう一枚写真を取り出した。見た瞬間、息が止まりそうになる。
 それは一目見て遠くから隠し撮りされたものとわかる。そこには、ひなと慶翔、そして慶一郎がまるで親子のように並んで写っている。
 
「……盗撮までしたんですか」

 掠れた声で言うと、篠宮は肩をすくめて笑った。

「盗撮? 報道の自由だよ、ひなさん」
「……いったい、なにが目的なんです」
 
 ひなの問いに、篠宮は椅子の背もたれに身体を預け鼻で笑った。

「僕を侮辱した代償を払ってもらうだけだよ。……この女は、僕との見合いの最中に他の男と馴れ馴れしくしていた節操のない女だ、とね。そう書かせるつもりだ。君の人生──いや、平民の君は大して傷はつかないか」

 篠宮は、ククッ、と喉の奥で笑う。
 
「だが、この旅館と……早乙女家はどうなるだろうね?」
「……!」
 
 その言葉が突き刺さる。
 ひな自身のことはどうでもいい。名誉が傷つこうと、名が晒されようと構わない。
 しかし、この湯乃谷屋や慶一郎、慶翔に害が及ぶことだけは、絶対に避けなければならなかった。
 
「そんなことをすれば、あなたも……」

 脅しのつもりで口にした言葉を、篠宮はあっさりと切り捨てる。
 
「僕には失うものなんてないよ。むしろ、これで話題になれば次の選挙で注目されて、追い風になるくらいさ」

 篠宮は笑っていた。だがその目の奥には、冷たい狂気が宿っていた。
 ここまで手段を選ばない男だとは思わなかった。
 ──どうすればいい?
 どうすれば、この場を収められる?
 ひなが必死に考えを巡らせていたそのとき、襖が勢いよく開け放たれた。

 音に驚き振り返ると、そこに立っていたのは慶一郎だった。
 女将が呼んでくれたのだろう。
 慶一郎が一歩踏み出た瞬間、部屋の空気がひときわ強く張り詰めた。
 篠宮の口元が、いやらしいほどに吊り上がる。

「おや、ようやくお出ましですか、早乙女さん。恋人を隠して温泉療養とはね。いや……愛人と言った方がいいかな?」

 肩をすくめるしぐさは、嫌味なほどに芝居がかったように見えた。
 
「その口を閉じろ、篠宮」

 慶一郎の声は低く、静かだったが、その一言で空気が凍った。
 
「君こそ、早乙女家の当主が、庶民の女に子を産ませて捨てたとなれば……どうなるか、わかっているだろう?」
「……ああ。わかっている」

 慶一郎は、すっとひなの前に立った。
 守るように、かばうように。
 その背中を見た瞬間、不安を抱えながらも確かな頼もしさを感じた。

「記事を出したければ、出せばいい。だが──その代償は、君の想像を超えるものになる」
「……脅しか?」

 篠宮の目が細められる。
 慶一郎は、一歩も引かずに言い放った。

「警告だ。俺は、君のような卑怯者に屈しない」

 篠宮の目がわずかに揺らいだ。慶一郎の言葉には、確かな覚悟と権威があった。
 数秒の沈黙が流れたのち、篠宮は「ふん」と鼻を鳴らし立ち上がった。

「強がりを言っていられるのも今のうちだ。この記事が世に出るまで……せいぜい幸せな家庭ごっこを楽しんでくれたまえ」

 篠宮は口角を吊り上げ、挑発的な足音を響かせながら、湯乃谷屋を後にした。

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