あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
*
その夜、ひなは慶翔をとらに預け、慶一郎と話し合うために椿の間を訪れていた。
けれど今、部屋には彼の姿はなく、ひなは一人、障子を開け放った窓際に立っていた。
外には濃い夜の帳が降りていた。
今の季節の雲は厚く、星明かりさえも隠してしまいそうな空。
けれどその隙間から、ちらりと覗く小さな光が、どこか儚げに瞬いている。
(……なぜ、こんなことになってしまったのだろう)
篠宮が現れ、あんな記事を突きつけてきた。
今まで積み重ねてきた日々が、脆くも崩れていく音がするようだった。
あの夜、慶一郎と一線を越えなければよかったのか。
けれど、すぐにその考えを振り払う。
違う。
(私は、あの夜のことを後悔してはいない)
たとえその代償が今の現実であっても、慶翔を授かったあの瞬間を、自分の人生から消すことはできない。
怖かった。途方に暮れた日もあった。
けれど一人で育てていこうと決めた。何よりひなは慶翔を心から愛していた。
だけど、もう少し警戒しておくべきだったのかもしれない。
あの子が慶一郎に懐いていく姿を見て、気が緩んでいた。
やはり、彼に近づくべきではなかった。
……でも、それでも。
(私は、もう逃げないと決めた──)
これからどうすべきか、冷静に考えなければならない。
しばらくのあいだ、あの子を慶一郎のもとへ行かせるのはやめようか……。
空を見上げながらそんなことを考えていると、後ろから襖の開く音がした。
振り返ると、緊張の色を帯びた顔つきで慶一郎が戻ってきていた。
「一人にしてすまない。知り合いの記者に電話をかけてきた」
慶一郎は、そう言ってひなの正面に腰を下ろした。
迷いのない眼差し。早くも次の一手を講じていたのだとわかった。
「おそらく、あの記事を差し止めることはできない。だが、できる限りのことをするつもりだ」
その横顔に、焦りや苛立ちの色はない。
「記事が出た後、すぐに記者会見を開く。謝罪をし、必要があれば記事との相違点をきちんと説明する」
慶一郎の言葉は冷静だった。
けれど、それがどれほどの覚悟を伴うものか、ひなには痛いほどわかる。
「……世間は、あなたのことを信じてくださるでしょうか」
口にした自分の声が、思ったよりもかすれていた。
不安は拭えなかった。世論というものはときに、真実よりも見出しに踊らされる。
慶一郎は、ひなの肩に手を置きゆっくりと頷いた。
「信じてもらえるかどうかはわからない。だが、誠意を尽くす。それしか、俺にできることはないからな」
まっすぐに返されたその言葉に、胸がじんと熱くなる。
この人は、嵐の中にあっても真正面から向き合おうとしている。
自分だけでなく、慶翔や湯乃谷屋までも守ろうとしている。
その姿勢が、ひなの心を強く打った。
だからこそ、苦しかった。
あの夜、自分が逃げるために選んだ相手が、この人でよかったと思う反面、その代償を彼に背負わせてしまっているという思いが、胸の奥をきしませる。
「申し訳、ありません……」
気づけば、ひなの唇から震える声がこぼれていた。
「なぜ謝る」
慶一郎の声は落ち着いていたが、ひなにはどこか叱られているようにも聞こえた。
「……私のせいで、迷惑を……」
うつむきながら言った途端、強く胸が締めつけられた。
しかしその瞬間、ふわりと慶一郎の腕が伸びてきた。
「違う」
抱き寄せられた慶一郎の腕の中は、驚くほど温かかった。
背中に触れる手には、ためらいも戸惑いもなかった。
「俺は、自分の選んだ道に責任を持つ。……だから、安心しろ」
力強く告げられた言葉が、心の奥の凍えた部分にじんわりと染み込んでいく。
ひなの瞳に、自然と涙が滲んだ。
「でも……このままじゃ、あなたの立場が……」
「立場など、関係ない」
その言葉には、一分の揺らぎもなかった。
慶一郎は、ひなの手を取り温もりを重ねてきた。
「俺は、あの夜おまえを抱いたことを後悔していない」
まっすぐに向けられたその瞳から、ひなは目を逸らせなかった。
「ひな。おまえはどうだ?」
問いかけに、ひなの喉が詰まる。けれど、答えは胸の奥にずっとあった。
「私も……。後悔などしていません。あなたも、慶翔も……私にとって大切な人です」
頬を伝う涙が、一筋、ぽとりと落ちる。
けれどそれは、絶望の涙ではなかった。
慶一郎は微かに息を吐き、もう一度ひなの手を包み直した。
「俺もだ、ひな……。おまえたちは、必ず俺が守る。だから、俺を信じてくれ」
その声には、まるで誓いのような重みがあった。
ひなは唇を噛み締め、ゆっくりとうなずく。
「……はい」
窓の外から、夜風がそっと吹き込んでくる。
ひなの髪が揺れ、椿の香がかすかに漂った。
新たな嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
けれど、今は慶一郎の言葉を信じて乗り越えたいと、そう思えた。
その夜、ひなは慶翔をとらに預け、慶一郎と話し合うために椿の間を訪れていた。
けれど今、部屋には彼の姿はなく、ひなは一人、障子を開け放った窓際に立っていた。
外には濃い夜の帳が降りていた。
今の季節の雲は厚く、星明かりさえも隠してしまいそうな空。
けれどその隙間から、ちらりと覗く小さな光が、どこか儚げに瞬いている。
(……なぜ、こんなことになってしまったのだろう)
篠宮が現れ、あんな記事を突きつけてきた。
今まで積み重ねてきた日々が、脆くも崩れていく音がするようだった。
あの夜、慶一郎と一線を越えなければよかったのか。
けれど、すぐにその考えを振り払う。
違う。
(私は、あの夜のことを後悔してはいない)
たとえその代償が今の現実であっても、慶翔を授かったあの瞬間を、自分の人生から消すことはできない。
怖かった。途方に暮れた日もあった。
けれど一人で育てていこうと決めた。何よりひなは慶翔を心から愛していた。
だけど、もう少し警戒しておくべきだったのかもしれない。
あの子が慶一郎に懐いていく姿を見て、気が緩んでいた。
やはり、彼に近づくべきではなかった。
……でも、それでも。
(私は、もう逃げないと決めた──)
これからどうすべきか、冷静に考えなければならない。
しばらくのあいだ、あの子を慶一郎のもとへ行かせるのはやめようか……。
空を見上げながらそんなことを考えていると、後ろから襖の開く音がした。
振り返ると、緊張の色を帯びた顔つきで慶一郎が戻ってきていた。
「一人にしてすまない。知り合いの記者に電話をかけてきた」
慶一郎は、そう言ってひなの正面に腰を下ろした。
迷いのない眼差し。早くも次の一手を講じていたのだとわかった。
「おそらく、あの記事を差し止めることはできない。だが、できる限りのことをするつもりだ」
その横顔に、焦りや苛立ちの色はない。
「記事が出た後、すぐに記者会見を開く。謝罪をし、必要があれば記事との相違点をきちんと説明する」
慶一郎の言葉は冷静だった。
けれど、それがどれほどの覚悟を伴うものか、ひなには痛いほどわかる。
「……世間は、あなたのことを信じてくださるでしょうか」
口にした自分の声が、思ったよりもかすれていた。
不安は拭えなかった。世論というものはときに、真実よりも見出しに踊らされる。
慶一郎は、ひなの肩に手を置きゆっくりと頷いた。
「信じてもらえるかどうかはわからない。だが、誠意を尽くす。それしか、俺にできることはないからな」
まっすぐに返されたその言葉に、胸がじんと熱くなる。
この人は、嵐の中にあっても真正面から向き合おうとしている。
自分だけでなく、慶翔や湯乃谷屋までも守ろうとしている。
その姿勢が、ひなの心を強く打った。
だからこそ、苦しかった。
あの夜、自分が逃げるために選んだ相手が、この人でよかったと思う反面、その代償を彼に背負わせてしまっているという思いが、胸の奥をきしませる。
「申し訳、ありません……」
気づけば、ひなの唇から震える声がこぼれていた。
「なぜ謝る」
慶一郎の声は落ち着いていたが、ひなにはどこか叱られているようにも聞こえた。
「……私のせいで、迷惑を……」
うつむきながら言った途端、強く胸が締めつけられた。
しかしその瞬間、ふわりと慶一郎の腕が伸びてきた。
「違う」
抱き寄せられた慶一郎の腕の中は、驚くほど温かかった。
背中に触れる手には、ためらいも戸惑いもなかった。
「俺は、自分の選んだ道に責任を持つ。……だから、安心しろ」
力強く告げられた言葉が、心の奥の凍えた部分にじんわりと染み込んでいく。
ひなの瞳に、自然と涙が滲んだ。
「でも……このままじゃ、あなたの立場が……」
「立場など、関係ない」
その言葉には、一分の揺らぎもなかった。
慶一郎は、ひなの手を取り温もりを重ねてきた。
「俺は、あの夜おまえを抱いたことを後悔していない」
まっすぐに向けられたその瞳から、ひなは目を逸らせなかった。
「ひな。おまえはどうだ?」
問いかけに、ひなの喉が詰まる。けれど、答えは胸の奥にずっとあった。
「私も……。後悔などしていません。あなたも、慶翔も……私にとって大切な人です」
頬を伝う涙が、一筋、ぽとりと落ちる。
けれどそれは、絶望の涙ではなかった。
慶一郎は微かに息を吐き、もう一度ひなの手を包み直した。
「俺もだ、ひな……。おまえたちは、必ず俺が守る。だから、俺を信じてくれ」
その声には、まるで誓いのような重みがあった。
ひなは唇を噛み締め、ゆっくりとうなずく。
「……はい」
窓の外から、夜風がそっと吹き込んでくる。
ひなの髪が揺れ、椿の香がかすかに漂った。
新たな嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
けれど、今は慶一郎の言葉を信じて乗り越えたいと、そう思えた。