あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜


 その夜、ひなは慶翔をとらに預け、慶一郎と話し合うために椿の間を訪れていた。
 けれど今、部屋には彼の姿はなく、ひなは一人、障子を開け放った窓際に立っていた。

 外には濃い夜の帳が降りていた。
 今の季節の雲は厚く、星明かりさえも隠してしまいそうな空。
 けれどその隙間から、ちらりと覗く小さな光が、どこか儚げに瞬いている。

(……なぜ、こんなことになってしまったのだろう)

 篠宮が現れ、あんな記事を突きつけてきた。
 今まで積み重ねてきた日々が、脆くも崩れていく音がするようだった。

 あの夜、慶一郎と一線を越えなければよかったのか。
 けれど、すぐにその考えを振り払う。

 違う。
(私は、あの夜のことを後悔してはいない)
 
 たとえその代償が今の現実であっても、慶翔を授かったあの瞬間を、自分の人生から消すことはできない。
 怖かった。途方に暮れた日もあった。
 けれど一人で育てていこうと決めた。何よりひなは慶翔を心から愛していた。

 だけど、もう少し警戒しておくべきだったのかもしれない。
 あの子が慶一郎に懐いていく姿を見て、気が緩んでいた。
 やはり、彼に近づくべきではなかった。

 ……でも、それでも。

(私は、もう逃げないと決めた──)
 
 これからどうすべきか、冷静に考えなければならない。
 しばらくのあいだ、あの子を慶一郎のもとへ行かせるのはやめようか……。

 空を見上げながらそんなことを考えていると、後ろから襖の開く音がした。
 振り返ると、緊張の色を帯びた顔つきで慶一郎が戻ってきていた。

「一人にしてすまない。知り合いの記者に電話をかけてきた」

 慶一郎は、そう言ってひなの正面に腰を下ろした。
 迷いのない眼差し。早くも次の一手を講じていたのだとわかった。

「おそらく、あの記事を差し止めることはできない。だが、できる限りのことをするつもりだ」

 その横顔に、焦りや苛立ちの色はない。

「記事が出た後、すぐに記者会見を開く。謝罪をし、必要があれば記事との相違点をきちんと説明する」

 慶一郎の言葉は冷静だった。
 けれど、それがどれほどの覚悟を伴うものか、ひなには痛いほどわかる。

「……世間は、あなたのことを信じてくださるでしょうか」

 口にした自分の声が、思ったよりもかすれていた。
 不安は拭えなかった。世論というものはときに、真実よりも見出しに踊らされる。
 慶一郎は、ひなの肩に手を置きゆっくりと頷いた。

「信じてもらえるかどうかはわからない。だが、誠意を尽くす。それしか、俺にできることはないからな」

 まっすぐに返されたその言葉に、胸がじんと熱くなる。
 この人は、嵐の中にあっても真正面から向き合おうとしている。
 自分だけでなく、慶翔や湯乃谷屋までも守ろうとしている。
 その姿勢が、ひなの心を強く打った。
 だからこそ、苦しかった。
 あの夜、自分が逃げるために選んだ相手が、この人でよかったと思う反面、その代償を彼に背負わせてしまっているという思いが、胸の奥をきしませる。
 
「申し訳、ありません……」

 気づけば、ひなの唇から震える声がこぼれていた。

「なぜ謝る」

 慶一郎の声は落ち着いていたが、ひなにはどこか叱られているようにも聞こえた。

「……私のせいで、迷惑を……」

 うつむきながら言った途端、強く胸が締めつけられた。
 しかしその瞬間、ふわりと慶一郎の腕が伸びてきた。
 
「違う」

 抱き寄せられた慶一郎の腕の中は、驚くほど温かかった。
 背中に触れる手には、ためらいも戸惑いもなかった。

「俺は、自分の選んだ道に責任を持つ。……だから、安心しろ」

 力強く告げられた言葉が、心の奥の凍えた部分にじんわりと染み込んでいく。
 ひなの瞳に、自然と涙が滲んだ。

「でも……このままじゃ、あなたの立場が……」
「立場など、関係ない」

 その言葉には、一分の揺らぎもなかった。
 慶一郎は、ひなの手を取り温もりを重ねてきた。

「俺は、あの夜おまえを抱いたことを後悔していない」

 まっすぐに向けられたその瞳から、ひなは目を逸らせなかった。

「ひな。おまえはどうだ?」

 問いかけに、ひなの喉が詰まる。けれど、答えは胸の奥にずっとあった。

「私も……。後悔などしていません。あなたも、慶翔も……私にとって大切な人です」

 頬を伝う涙が、一筋、ぽとりと落ちる。
 けれどそれは、絶望の涙ではなかった。
 慶一郎は微かに息を吐き、もう一度ひなの手を包み直した。

「俺もだ、ひな……。おまえたちは、必ず俺が守る。だから、俺を信じてくれ」

 その声には、まるで誓いのような重みがあった。
 ひなは唇を噛み締め、ゆっくりとうなずく。

「……はい」

 窓の外から、夜風がそっと吹き込んでくる。
 ひなの髪が揺れ、椿の香がかすかに漂った。
 新たな嵐は、もうすぐそこまで来ていた。
 けれど、今は慶一郎の言葉を信じて乗り越えたいと、そう思えた。


 
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