あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜


【早乙女慶一郎、子爵家当主の覚悟】

 記者会見の翌日、その様子を伝える記事が新聞に掲載された。
 一面に慶一郎の名と写真が大きく載り、冷静な態度と堂々とした弁明が報じられている。
 さらに、ひなの発言も引用され、彼女の立場と考えが世間に伝わった。
 
 それから数日後、ある私立女学校の講師室に一通の匿名書簡が届く。
 繊細な筆致で綴られたその手紙には、篠宮との縁談にまつわる過去が記されていた。

『篠宮様との縁談を断った際、執拗な文を幾度も受け取りました。深夜に家の前をうろつかれたこともあります。さらに、父の商社に圧力がかかりました。このたびのひな様の件を目にし、筆を執ることにいたしました』
 
 それは匿名ながらも、明らかに上流階級の令嬢の筆跡と文体であった。
 その手紙は、やがて婦人報編集部にも届けられ、続くようにいくつもの同様の投書が舞い込んだ。いずれも、篠宮家からの縁談を断った女性たちによる告発だった。

『篠宮家に縁談を持ちかけられ、辞退したところ“家格に傷がついた”と父が責められた』
『“女には品位が必要だ”と繰り返すくせに、裏では私へ婚前の写真を寄越せと……』
 
 これらの手紙が編集部で密かに回覧され、最終的に『帝都婦人報』に特集記事として掲載された。

【告発続々──篠宮家御曹司、女たちの証言】
【背後で泣いていたのは誰か──社交界に潜む“美名と圧力”の影】
 
 記事はただちに婦人層のあいだで話題になり、驚きとともに反響を呼んだ。
 これまで「礼儀正しく、家柄を重んじる御曹司」として知られていた篠宮に対し、世論の目は急速に冷ややかなものへと変わっていった。

「まあ……あの篠宮様が、そんな真似を……?」
「私も聞いたことがあるわ。あの方、いつも『女に品位がないと嘆かわしい』って……」
「ひな様を責めていた自分が恥ずかしいわ。真に浅ましいのはどちらだったのかしらね」

 社交界に広がった噂は次々と篠宮家に打撃を与えた。
 次の見合い話はすべて白紙となり、爵位の継承についても取りやめが検討されているとの話まで立った。

 ある令嬢がはっきりと声を上げた。

「こんな人に“純潔”だの“品位”だの問われて、ひな様が気の毒でなりませんでしたわ。……ええ、あの方がご自分の価値とやらに、どれほど甘えていたか。私もよく知っております」

 その声に、数人の令嬢が深く頷いた。
 今では、ひなと慶一郎の恋こそが、誠実と真心の証として語られるようになったのだった。




 新聞を閉じた慶一郎は、机の上に静かに置いた。
 紙面には、篠宮にまつわる複数の告発が載っていた。ついに、事実が公にされたのだ。
 信用を回復するには、まだ時間がかかるかもしれない。
 しかしこれでようやく、ひなも湯乃谷屋も、その名誉を取り戻せる。
 だが、胸の奥に広がるのは達成感というより、どこか遠くへ置き去りにされたような静けさだった。

 そこへ、ぱたぱたと廊下を走る小さな足音が近づいてきた。

「けーいちろー!」

 襖が勢いよく開き、慶翔が満面の笑みで飛び込んでくる。
 その後ろから、ひなが慌てて姿を見せた。

「もう、お部屋では静かにって言ったでしょう?」
「でも、今日は遊んでくれるってゆったもん!」

 慶翔は元気よく畳に跳ねるように駆け寄り、慶一郎の膝に抱きついた。
 そのぬくもりに、慶一郎も微かに笑みを浮かべる。

「そうだったな。……すまない、少しだけ、待っていてくれるか」

 そっと頭を撫でようと手を伸ばしたとき、ふと、指先に力が入らないことに気づいた。
 額に汗が滲む。視界が、霞がかったようにぼやける。

「……?」

 慶翔が首を傾げながら慶一郎を見上げる。
 慶一郎は笑みを保ったまま、ひとつ深く息を吐いた。

 名誉は守った。
 けれど守るべきものは、それだけではない。
 慶一郎は目を伏せ、慶翔を膝の上に乗せながら椅子の背に身を預ける。
 ほんの少しの疲労が、波のように身体を包んでいた。
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