あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

10・唇よりも近く

 嵐のような日々が過ぎ、静寂が戻った旅館の敷地には、露を帯びた木々が陽を浴びてきらめいていた。

 篠宮の陰謀は、ひなと慶一郎の尽力によってかろうじて退けられた。
 だが、それは決して容易なことではなかった。
 特に慶一郎の体には、その余波が色濃く残っていた。
 ひなが異変に気づいたのは、昼下がりの静かなひとときだった。
 
「早乙女様、お薬をお持ちいたしました」

 しん、と静まり返った空気がひなの耳に届くだけだった。
 返事がないことを不思議に思い、襖をそっと開けると、窓際の座椅子にもたれてうつむき加減になっている慶一郎の姿が見えた。

「早乙女様……!?」

 慌てて近づいてみると、彼の額には冷や汗が浮かんでいた。顔色がひどく悪い。

「……大丈夫だ」

 そう言いながらも、慶一郎の声はひどく掠れていた。
 
「いけません、すぐお布団に……!」

 急ぎ部屋を整え直し、ひなは彼を支えるようにして布団へと横たわらせた。
 襖を閉めると、ひなは用意していた薬草の瓶を取り出し、湯と混ぜてゆっくりと煎じ始めた。
 湯気とともに広がる薬草の香りに、慶一郎の表情にもわずかに落ち着きが戻る。

「もしかして……ずっと無理をなさっていたのですか」

 小さな声でそうつぶやきながら、彼の額に布を当てる。
 彼はもともと、この旅館へ静養のために来たのだ。
 無理を押して動いた代償は、容赦なく彼の身を蝕んだのだろう。
 薬が効いてきたのか、慶一郎はうっすらと目を開いた。

「無理をしたつもりはない。少し、疲れが出ただけだ」

 記者会見は、隣にいただけのひなでも疲れるものだった。
 もしかしたら、慶翔の相手も良くなかったのかもしれない。
 二人が親子のように遊ぶ姿を見て嬉しく思い、甘えすぎていたのかもしれない。
 
「今は、静かに眠ってください。私が、ずっとついていますから」

 その言葉に、慶一郎の瞳がふと揺れた。
 ひなの目をまっすぐに見返し、小さく頷く。

「ありがとう、ひな。……本当に、君がいてくれてよかった」

 縁側の外では、雨上がりの庭から、時折水滴が落ちる音だけが聞こえていた。
 その音が、ふたりの間に残る緊張をやさしく洗い流していくようだった。

 そして、ひなはその夜、枕元で何度も薬を調合しながら、ひとつの決意を胸に秘めた。
 この人のそばにいるのは、単なる恩義では済まされないものになってきている。
 けれどそれが何なのか、まだ自分でも、はっきりとは言葉にできなかった。

(……このままずっと、慶一郎様がここにいてくれたら……)

 その願いは、初夏の夜の静けさに溶けて、ゆっくりと月明かりに包まれていった。

 
 
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