あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
昨日の晴れ間はつかの間で、再び梅雨らしい曇り空が広がっていた。
軒先には湿り気を含んだ空気が垂れこめる中、深い緑の馬車が湯乃谷屋の前に停まる。
扉が開き、最初に降り立ったのは黒服の従者たちだった。
背筋の伸びた二人の男が足元を固めるように立ち、まもなく、丁寧に手を差し出す。
そこへ、柔らかな絹のワンピースの裾をそっとたくし上げながら、ひとりの若い女性が姿を現した。
端整な顔立ちに、ゆるやかな巻き髪。細い体を包む薄手の外套と、レースの手袋。
その佇まいは、一目見て上流階級の者だとわかる。
「失礼致します。わたくし、葛城沙都子と申します。こちらに、わたくしの婚約者がお世話になっていると聞いて、お見舞いに参りました」
凛と張った声が、玄関の板間に静かに響く。
その名に、女将もひな思わず顔を見合わせる。
どうやら、先日の報道騒ぎでこの場所を突き止めたらしい。
ひなの胸が、きゅうと縮こまった。
(この方が……慶一郎様の、婚約者)
目の前に立つ沙都子は、噂通りの美しさだった。姿勢は凛と正しく、品のある口調、隙のない身なり。
思わずひなは、自分の薄汚れた作務衣の裾を見下ろし、わずかに身をすくめる。
(素敵な方……やっぱり、この方のほうが……)
頭の中で何かがすっと冷える。
心を押し殺すようにして、ひなは深く頭を下げた。
「申し訳ございません。早乙女様は、現在体調不良で伏せっておられます。面会は、ご遠慮いただいております」
「まあ。わたくしは婚約者ですのよ? 体調不良なら尚更ではなくて? お見舞い申し上げますわ。お部屋はどちらかしら」
沙都子は、少しもためらう様子もなく靴を脱ぐと、すたすたと館内へと上がり込んでいった。
「お、お待ちくださいませ、葛城様……!」
ひなが慌てて声をかけるも、その制止はあっさりとかわされる。沙都子は迷いなく階段を上り始めた。この手の旅館に慣れているのだろう。上客の部屋が二階にあると、当然のように知っているその姿に、ひなは思わず唇を噛んだ。
「……わかりました、葛城様。少々お待ちくださいませ。早乙女様にお声をかけて参ります」
婚約者といえど、本人の許可なく部屋に通すわけにはいかない。
どんな立場の相手でも、守るべき礼儀がある。
椿の間の襖の前に立ち、深く息を吸って声をかける。
「早乙女様、ひなでございます。婚約者の葛城様がお見えになっていて……。お開けしてもよろしいでしょうか」
しかし、返事はない。
先ほどよりも静まり返った空気に、ひなの胸がざわつく。嫌な予感がした。
「……っ、失礼いたします」
返答を待たずに襖を引いた瞬間、はっと息を呑む。
慶一郎は敷かれた布団の上、苦悶の表情を浮かべて身をよじっていた。額には脂汗が滲み、肩で浅く息をしている。普段の凛とした姿はどこにもない。これはただの疲労ではない──。
「けい──早乙女様!」
ひなは叫ぶようにして名を呼び、思わず駆け寄ろうとした。
そのとき──背後から、別の足音が駆け込んでくる。
「慶一郎様っ!」
沙都子だった。顔を引きつらせ、ためらいもなく布団のそばに膝をつく。
まるで、当然の権利であるかのように。
ひなは、その姿を見て動けなくなっていた。
慶一郎の名を、誰よりも自然に呼び、誰よりも近くで手を差し伸べるその姿を見て、心が張り裂けそうになる。
「……ああ、苦しそうですわ! 仲居さん、どうにかなりませんの!?」
その一言が、ひなの意識を引き戻した。
感情に呑まれている暇など、今の自分にはない。
「すぐに、お薬を!」
言いながら踵を返し、ひなは駆け出した。
軒先には湿り気を含んだ空気が垂れこめる中、深い緑の馬車が湯乃谷屋の前に停まる。
扉が開き、最初に降り立ったのは黒服の従者たちだった。
背筋の伸びた二人の男が足元を固めるように立ち、まもなく、丁寧に手を差し出す。
そこへ、柔らかな絹のワンピースの裾をそっとたくし上げながら、ひとりの若い女性が姿を現した。
端整な顔立ちに、ゆるやかな巻き髪。細い体を包む薄手の外套と、レースの手袋。
その佇まいは、一目見て上流階級の者だとわかる。
「失礼致します。わたくし、葛城沙都子と申します。こちらに、わたくしの婚約者がお世話になっていると聞いて、お見舞いに参りました」
凛と張った声が、玄関の板間に静かに響く。
その名に、女将もひな思わず顔を見合わせる。
どうやら、先日の報道騒ぎでこの場所を突き止めたらしい。
ひなの胸が、きゅうと縮こまった。
(この方が……慶一郎様の、婚約者)
目の前に立つ沙都子は、噂通りの美しさだった。姿勢は凛と正しく、品のある口調、隙のない身なり。
思わずひなは、自分の薄汚れた作務衣の裾を見下ろし、わずかに身をすくめる。
(素敵な方……やっぱり、この方のほうが……)
頭の中で何かがすっと冷える。
心を押し殺すようにして、ひなは深く頭を下げた。
「申し訳ございません。早乙女様は、現在体調不良で伏せっておられます。面会は、ご遠慮いただいております」
「まあ。わたくしは婚約者ですのよ? 体調不良なら尚更ではなくて? お見舞い申し上げますわ。お部屋はどちらかしら」
沙都子は、少しもためらう様子もなく靴を脱ぐと、すたすたと館内へと上がり込んでいった。
「お、お待ちくださいませ、葛城様……!」
ひなが慌てて声をかけるも、その制止はあっさりとかわされる。沙都子は迷いなく階段を上り始めた。この手の旅館に慣れているのだろう。上客の部屋が二階にあると、当然のように知っているその姿に、ひなは思わず唇を噛んだ。
「……わかりました、葛城様。少々お待ちくださいませ。早乙女様にお声をかけて参ります」
婚約者といえど、本人の許可なく部屋に通すわけにはいかない。
どんな立場の相手でも、守るべき礼儀がある。
椿の間の襖の前に立ち、深く息を吸って声をかける。
「早乙女様、ひなでございます。婚約者の葛城様がお見えになっていて……。お開けしてもよろしいでしょうか」
しかし、返事はない。
先ほどよりも静まり返った空気に、ひなの胸がざわつく。嫌な予感がした。
「……っ、失礼いたします」
返答を待たずに襖を引いた瞬間、はっと息を呑む。
慶一郎は敷かれた布団の上、苦悶の表情を浮かべて身をよじっていた。額には脂汗が滲み、肩で浅く息をしている。普段の凛とした姿はどこにもない。これはただの疲労ではない──。
「けい──早乙女様!」
ひなは叫ぶようにして名を呼び、思わず駆け寄ろうとした。
そのとき──背後から、別の足音が駆け込んでくる。
「慶一郎様っ!」
沙都子だった。顔を引きつらせ、ためらいもなく布団のそばに膝をつく。
まるで、当然の権利であるかのように。
ひなは、その姿を見て動けなくなっていた。
慶一郎の名を、誰よりも自然に呼び、誰よりも近くで手を差し伸べるその姿を見て、心が張り裂けそうになる。
「……ああ、苦しそうですわ! 仲居さん、どうにかなりませんの!?」
その一言が、ひなの意識を引き戻した。
感情に呑まれている暇など、今の自分にはない。
「すぐに、お薬を!」
言いながら踵を返し、ひなは駆け出した。