あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 中では、沙都子が不安げな面持ちで慶一郎の顔を覗き込み、薬の匙を唇へと近づけていた。
 けれど、慶一郎の唇はわずかに開いたまま、薬を迎えることも、飲み込むこともない。
 スミレの色に濁った液が、顎を伝ってぽたりと浴衣を濡らす。

「あっ……」

 掠れるような声が、静かな室内にこだまする。

「飲んで……」

 もう一度、そしてまたもう一度。
 匙を持ち直して薬を運ぶ沙都子の姿に、ひなは胸はちくりと痛んだ。
 彼女なりに、必死なのだろう。けれど……慶一郎の喉は動かない。

「……慶一郎様。お願い……目を覚まして。わたくしが来ましたのよ。沙都子です」

 沙都子の指が、彼の頬にそっと触れる。
 その瞬間、慶一郎の唇から、掠れたうわごとが漏れた。

「……ひ、な……」

 縋るようなその声に、ひなは息を呑む。
 そばに行きたいのに、襖一枚がとても分厚く感じる。
 沙都子の肩がぴくりと震えたのが見えた。匙を握る指が、白く強ばっている。
 彼女の手が震え、わずかに中身が跳ねて布団にこぼれた。

 もう一度、今度は力づくで飲ませようとする様子に、ひなは思わず一歩踏み出しそうになる。

「あなたの婚約者は、わたくしですのに……っ。どうして……!」

 かすかに震える声。
 その横顔には、悔しさと哀しさと、そして自尊心がぎりぎりのところで保たれているような、そんな表情があった。

 やがて、匙を握る手が力なく下がり、沙都子はゆっくりと襖を開けた。

「……ひと口も、飲んでくださらないのです……っ」

 湯呑の中の薬が少し残ったまま、揺れている。

「……どうして、あなたばかり……」

 沙都子の視線が、苦しげにひなを見つめる。
 ひなは、見かねたように一歩踏み出した。

「……貸してください」

 沙都子は諦めたように湯呑と匙を差し出した。
 その手には、もう抗う力はないようだ。
 ひなの背後に立ったまま、じっと見つめている気配があった。

「……お願いです。少し、席を外していただけませんか」

 静かにそう言うと、沙都子は唇をきゅっと結び、無言のまま廊下へと身を引いた。
 ひなはそろそろと近づき、慶一郎のもとへ膝をつく。
 湯呑の薬がほのかに揺れて、スミレの香りがふわりと立ちのぼる。
 ひなはそれを見つめたあと、迷いのない仕草で一気に薬を口に含んだ。
 慶一郎の顎を上げ、気道を確保する。

(……今だけ、お許しください)

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