あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 心の中でそうささやき、慶一郎の唇に自らの唇を重ねた。

 互いの口から、薬がこぼれそうになる。
 それでも必死に押しとどめ、どうにか一滴でも飲ませようとする。
 そこに込められているのは、ただの薬の成分ではない。
 命をつなぎたいという切実な想い。
 どうしても、この人を失いたくないという祈りだった。

 しばらくして、彼の喉がかすかに動いた。
 くぐもった息とともに、薬が流れ込む感覚が、ひなの唇越しに伝わってくる。

(……飲んだ……!)

 胸に張りつめていたものが、ふっとほどけ、ひなはその場にへたり込む。
 その直後、襖の向こうから沙都子の声が聞こえてきた。
 
「……すごいですわね」

 どうやら、隙間から見られていたようだ。
 その声には悔しさだけではない感情が含まれていたように聞こえる。

「わたくしには、できませんでした。こんなふうに……慶一郎様を支えること」

 ひなが立ち上がると、沙都子もまた姿を現す。
 泣いてなどいなかった。けれど、目元はどこか濡れているようにも見えた。

「ひなさん、でしたわね?」
「……はい」
「あなたが羨ましいわ。わたくしは、お金で買えるものはなんでも手に入った。けれど、慶一郎様の心だけは……最後まで、手に入らなかった」

 そう言ったあと、沙都子はかすかに笑った。けれど、それは強がりにも似た笑みだった。
 声は穏やかだったが、その端々に滲むのは、わずかな哀しみと敗北感。
 彼女の横顔は、どこか遠くを見るようにぼんやりと霞んで見えた。

「今日は帰ります。慶一郎様に、よろしくお伝えくださいませ」

 お供を従え、沙都子は静かに館を後にする。
 馬車の車輪の音が遠ざかるのを、ひなはしばらく無言で見送っていた。

 
< 63 / 83 >

この作品をシェア

pagetop