あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

11・慶一郎

 ──銃声が、空気を裂いた。

 夜の帳が落ちかける頃、乾いた土煙が舞い上がる。
 瓦礫と赤錆の匂いが混じった風が、慶一郎の頬を撫でた。
 腰に下げた軍刀の柄を、握り直す。
 くすんだ黄土色の軍服にはすでに泥が飛び、肩章に刻まれた階級章だけが、僅かに光を残している。

「──早乙女少尉! 左前方、民家跡からの伏兵です!」
「了解した。伏せろ、弾が来るぞ!」

 部下の報告に即座に応え、慶一郎は素早く身を低くした。
 ぱしん、と耳をかすめるように飛んでいく音。すぐそばの土嚢が破裂し、砂が舞う。

 慶一郎の率いる小隊はこの村に斥候として入り、制圧と現地協力者の保護を任されていた。
 だが、想定よりも早く敵勢力に察知され、散発的な銃撃が続いていた。

 焦るな、冷静に。
 ここで崩れれば、小隊が潰れる。指揮官である自分が、最前に立つしかない。

「右側の民家の影を制圧、三人一組で移動しろ! 弾は節約しつつ応戦を継続!」

 命令を飛ばしながら、慶一郎は小刻みに息を整えた。
 しかし、次の瞬間、背後から誰かの足音がした。

「少尉!」

 声の主は、まだ年端もいかない少年だった。
 浅黒い肌、細い肩、胸には彼らの小隊が渡した布製の腕章──協力者の印だ。

「こんなところまで来るなと言ったはずだ!」
「でも、今、あそこに……民家にまだ人が!」

 少年の指差す先に、崩れかけた屋根の影が見えた。
 確かに、誰かの影が揺れている。

「伏兵の可能性がある、戻れ!」
「でも、あれは──っ!」

 少年が駆け出す。
 そのときだった。

 視界の端から飛び出す黒い影。敵兵だ。
 銃剣をかまえ、少年に突進するその気配に、慶一郎の体が勝手に動いた。

「……っ! ──やめろ!」

 声が喉を裂いた。
 次の瞬間、慶一郎は少年の前に身を投げ出し、背を向けたまま敵兵の攻撃を受け止めていた。

 衝撃。焼けつくような痛み。
 鋭利な刃が肩甲骨の下を裂き、背中を斜めに抉っていった。

「っぐ、あああっ……!」

 地面が揺れたのか、自分の体が揺れたのか。
 それでも歯を食いしばり、慶一郎は軍刀を抜いた。

 少年の怯えきった顔が目の前にあった。
 この子を、死なせるわけにはいかない。

 敵兵の胸元に刀を突き立て、刃が骨に当たる感触を感じながら、慶一郎はようやくその場を制した。

 倒れた敵兵のそばで、少年が震えている。
 血が混じった匂いのなかで、慶一郎は苦しみに耐えながら笑った。

「……もう、行け……早く、本隊の元へ戻れ……」
「でも……少尉が……!」
「行け……! 命令だ……」

 少年は何度も首を振ったが、やがて唇を噛み、背を向けて走り去った。
 ──それが、彼を見た最後だった。

 数日後、村は制圧された。敵兵は撤退し、負傷兵も徐々に本隊へ戻されていった。
 慶一郎も簡易治療を受け、身体には白い包帯が巻かれた。だが、心の痛みは増すばかりだった。

 少年の姿が、どうしても見つからない。

 砲撃で崩れたままの民家を一つ一つ確認し、声を張り上げて名を呼んだ。
 だが、返事はどこにもなかった。

 そして、村はずれの焼け落ちた納屋の影で……慶一郎は少年の亡骸を見つけた。

 焦げた木材の間に、小さく横たわる身体。
 焼け焦げた布地の中に、あの布の腕章がまだ残っていた。

「……どうして、ここに……」

 跪き、伸ばした手が震えた。
 あのとき、確かに守ったはずだった。逃がしたはずだった。間に合ったはずだった。
 隠れていた納屋ごと、炎に呑まれたのだろうか。

「……なんの、ために……」

 自分の背に残った、あの深い傷。
 皮膚の下で、今でも時折疼くそれは、ただの傷ではない。
 守れなかった命の、記憶そのものだった。
 
 その日以降、慶一郎は必要以上に人と接することをやめた。
 傷の痛みが消えることはなく、それに伴って心も閉ざしていった。
 笑うことも少なくなり、軍を抜け早乙女家を継いでからは、周囲から「冷酷当主」と噂されるようになる。

 ある日、部下の一人が旅行先でとある塗り薬を見つける。
 それが、ひなの薬だった。
 
「すごくよく効くらしくて、でも滅多に手に入らないらしいんです! 社長、良かったらどうぞ使ってみてください!」

 正直、半信半疑ではあったが、部下の思いを無下にするのも申し訳ないと思い受け取った。
 帰宅して、自室でブリキの蓋を開ける。
 なんてことはない、どこにでもありそうな軟膏だった。
 しかし、どこか懐かしい匂いがした。

 家令に頼んで、背中の傷に塗ってもらう。
 するとどうだろう、鈍い痛みがスッと引いた。
 まるで、重石をひとつ取り除かれたように、胸の内まで軽くなった気がした。
 あまりの効果に戸惑いながらも、何気なくその薬のことを母に話した。

「そんなによく効く薬なら、こちらで調べてみるわ。早乙女製薬で作れるのが、一番いいでしょう?」

 それが、ひなとの最初の接点だった。
 薬を辿り、彼女という存在に行き着いた時──
 慶一郎ははじめて思ったのだ。この傷が癒えるかもしれないと。

 薬草を丁寧に扱い、少し下を向いて微笑む彼女の姿に、知らず目を奪われていた。
 言葉少なな彼女の傍にいると、不思議と時間の流れが緩やかになった。
 静けさの中に、ひと筋の光が差し込むような感覚。

 それが、まだ名もない感情の芽生えだった。

 彼女が笑うたび、自分の内側に何かが灯るのを感じていた。
 寒さに慣れた心が、ようやく春に触れたように──
 
『慶一郎様……っ!』

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