あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 *


「……っ……!」

 慶一郎は喉を震わせ、はっと目を開いた。
 背中が、じっとりと汗に濡れている。

(──夢、か)

 静寂の中、障子越しに風の音がかすかに聞こえた。
 手を伸ばし、額をぬぐう。熱ではない。記憶が呼び起こした汗だった。
 夢の中で何度も繰り返してきた場面──今夜はとりわけ鮮やかだった。

 しかしその悪夢の中にすら、彼女はいた。
 ひなという存在が、あの忌まわしい記憶すら、穏やかに包み込んでいた。
 しばらくの間、ぼんやりと天井を見つめる。
 やがて視線をわずかに逸らすと、すぐ隣に、小さく肩を上下させて眠るひなの姿が目に入った。

「……ひな……?」

 呟いた声と同時に、自分の手に温もりを感じる。
 ひなの手が、重ねられていた。
 ひょっとすると、一晩中こうしてそばにいてくれたのかもしれない。

 声が届いたのか、ひながはっと目を開ける。
 こちらの顔を見て安心したように、その瞳が潤んだ。
 
「気がつかれたんですね……!」
 
 頬をつたって、すっと一筋の涙がこぼれ落ちる。
 現実の声だ。
 心配そうに顔を覗き込むその瞳に、どこか懐かしい光が宿っていた。

 声をかけようとしたが、喉がからからに渇いていて、掠れた音しか出なかった。

「お水を入れますね」

 ひながすぐに湯呑を差し出す。
 互いの手が不意に触れ合ったその瞬間──ひなを抱きしめていた。
 湯呑がひなの手から離れ、布団を濡らして転がっていく。
 
「け、慶一郎様……?」
  
 慶一郎は、ただ黙ってひなを抱きしめる。
 温もりを確かめるように、腕に力を込めた。
 胸の奥に刺さっていた棘が、少しだけ溶けていくような、そんな気がした。

 あのとき、自分が守りきれなかった命。
 だが今ここにあるこの手だけは、どうしても離したくなかった。

 ひながそっと背に腕を回してきた。
 慰めるように背を撫でられ、抑えていた何かが崩れていくのを感じた。
 
(……もう、なにも失いたくない)

 障子の隙間から差し込む朝の光が、部屋に柔らかな影を落とす。
 静かな湯宿の一室で、再びともった命の灯は、穏やかに息づいていた。
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