あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

12・青蓮草

 雨が上がった午後、窓辺には微かな風が流れていた。梅雨の合間に差す柔らかな日差しの下、ひなは白湯を湯呑に注ぎ、慶一郎に手渡した。

 顔色はまだ本調子とは言い難いものの、呼吸は安定し、うっすらと頬に血色が戻ってきていた。座椅子にもたれながら座る彼は、目を細めながらぽつりとつぶやいた。

「……ひな」
「はい」
「俺は、すべてを捨ててもいい。家も、立場も──すべてを」

 真っ直ぐにひなを見つめる慶一郎の瞳には、迷いはなかった。

「だから……一緒になってほしい」

 胸がきゅう、と音を立てて締めつけられるようだった。
 ひなは手ぬぐいを握りしめたまま、少しだけ視線を逸らした。

「……慶一郎様。とても……嬉しいです。でも」

 一呼吸置いて、まっすぐに慶一郎を見た。
 
「それは、いけません」

 慶一郎が目を見開いた。

「なぜだ。俺は本気だ。おまえを、人生のすべてに迎えたいと思っている」

 その言葉に、嘘はないのだろう。
 ひなにとってそれは痛いほどに真っ直ぐな愛だった。
 
 しかし、ひなは長屋にいた頃の暮らしを思い出す。
 家賃も払えなかったほどの貧しい暮らし。薬は、主に近所の人たちとの物々交換。食うには困らなかったが、お金にはならなかった。
 名も立場も捨てるということは、そういう暮らしになるということだ。
 二人だけなら、まだいいだろう。だが、まだ幼い慶翔はどうなるだろう。
 それに、慶一郎が去れば、早乙女製薬そのものが揺らぐ。
 社員たちの生活、未来、すべてが危うくなるかもしれない。

 爵位を持つとは、ただ家柄を背負うということではない。
 数百の命と歴史に、責任を持つということだ。
 ひなは、小さく首を振って言った。
 
「……早乙女製薬には、慶一郎様が必要です。『捨てる』なんて……簡単に言わないでください」

 自分の声が、わずかに震えているのがわかる。
 それでも、心の奥にある決意だけは、はっきりとしていた。
 慶一郎を尊敬し、愛しているからこそ言わなければならないことだった。
 
 慶一郎は何も言わず、ただひなの瞳をじっと見返してきた。
 その視線には、戸惑いと苦しみが浮かび、なにかを考えているようにも見えた。
 しばらくの沈黙の後、慶一郎はふっと目を伏せ、低い声で告げる。
 
「……実はな。早乙女製薬の業績は、芳しくないんだ」
「え……?」
 
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