あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜

13・母・清栄

 ──数日後。
 どんよりとした雲が、梅雨空を覆っている。
 湿った空気が肌にまとわりつく中、慶一郎とひなは、慶翔を連れて早乙女家の門前に立っていた。慶一郎の療養が明け、帝都へと戻る日がとうとうやって来たのだ。

 かつて女中として仕えていたこの屋敷に、今度は客人として足を踏み入れる。そんな不思議な感覚に、ひなは自然と背筋を正す。
 あの日、追い出されるようにして出た場所に、四年ぶりに自らの意志で戻ってきた。

「慶翔は、山根さんが見ていてくれる。安心してくれ」
「……はい」

 山根に連絡を入れておいたおかげで、離れには温かな布団と菓子が用意され、慶翔は目を輝かせて飛び込んでいった。
 その様子に、ひなもようやく緊張を少しだけ解く。

 しかし、奥座敷へと続く廊下を歩くうち、鼓動は早くなっていく。
 何が待っているかわからない。
 清栄は、怒っているだろうか、それとも……。
 そう考えているうちに、奥座敷の前に辿り着いた。

「母上、ただいま戻りました」
 
 慶一郎によって襖が開かれる。
 ひなは、その陰に隠れるようにして立っていた。
 しかし、いつまでも慶一郎の背にいるわけにはいかない。
 そっと顔を覗かせると、座敷の奥に座していた清栄と目が合った。
 その瞬間、清栄の顔に浮かんだのは、憤怒でも冷笑でもなかった。

「まあ! ひなじゃないの!」

 ぱあっと表情を明るくし、身を乗り出すようにして手を広げる清栄。

 あまりの変貌ぶりに、ひなはビクッと肩を震わせた。
 そのまま言葉を選びながら、深く頭を下げる。

「あの……大奥様。その節は……大変申し訳ありませんでした」

 過去の非礼と迷惑を思えば、謝らずにはいられなかった。
 だが清栄は、優雅に首を振ると笑みを湛えたまま言った。

「いいのよ、もう。私も悪かったの。篠宮様があんな方だったなんてね。ひなが篠宮家にお嫁に行かなくて、本当に良かったと思っているのよ」

 その言葉に、ひなの胸がわずかに軽くなる。
 あの篠宮家の醜聞は、今やゴシップ誌の格好の餌となっており、政財界でも大きな波紋を呼んでいる。
 早乙女家の名を守ることが、清栄にとってどれほど重要かを考えれば、この変化も理解できないことはない。

 だが。
 その和やかな空気は、次の一言で音を立てて崩れ落ちた。

「それでね、ひな──」

 やけに甘ったるい声。
 薄く開いた唇の端が、不気味に吊り上がる。

「また、次のお見合い相手を探してきたのよ」
「……え?」

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