あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
一瞬、時が止まったようだった。
ひなは言葉を失い、ただ清栄の顔を見つめる。
この人は、本質的には何も変わっていない。
見た目の笑顔の奥にあるのは、早乙女家の名誉を守るための冷たい計算。
それだけは、決して手放さない女だ。
「あ、あの、大奥様……」
おそるおそるひなが声を発するが、清栄はにこやかに顔を向けたまま、間髪入れずに語り出す。
「前回の件は不運だったけれど、だからといって人生を止めてはいけないわ。今回はね、もっと慎重に選んだの。ちょっとお年はいってるんだけど、格式のあるお家柄の方でね。清白でなくてもいいっておっしゃっていて、三十歳手前でも構わないと。前の奥様は病気で亡くなったそうだけど、それ以外は非の打ち所がないの。この方なら、ひなにぴったり──」
「──母上!」
その言葉を遮ったのは、低く鋭い声だった。
慶一郎は眼鏡の奥の瞳を光らせ、一歩、前に出る。
清栄が、小さく眉をひそめた。
「母上。もう、やめましょう」
「なに……?」
「他人に頼る経営は、やめようと言っているのです。これまで母上がしてきたことは、ただの延命措置に過ぎません。篠宮家との縁談も、他家の支援も、すべては“その場しのぎ”でした」
慶一郎の言葉を聞いた清栄は、唇をわなわなと震わせた。
「……私の努力を否定するの?」
まるで爆発寸前の火薬のように、腹の底から沸き出た感情が、抑えられないでいる。
居並ぶ二人の間に緊張が走る。
ひなの身体は強張り、声を挟むことなどできなかった。
「私は……私だって、そうだった! 十九でこの家に嫁がされて……好きでもない男のもとに、政略の駒として送られて……!」
爪が食い込むかと思うほど拳を握りしめ、清栄は言葉を続けた。
「誰にも頼れなかったわ。家のために、必死で子を産んで、育てて……笑って……。そうしなければ、女なんてただの道具なのよ!」
その言葉に、ひなの胸がひりつき、かすかな痛みと同情を抱く。
──この人は、きっと誰にも弱音を吐けず、ずっとそうやって、自分を納得させながら生きてきたのだ。
けれど、そのやり方ではもう誰も幸せになれない。
ひなの隣で、慶一郎はうつむき加減で首を振る。
「母上のお話には同情いたしますし、否定もしません。ただ、終わりにしましょう。母上のやり方では、この家も、会社も、誰も救えない。今こそ変わらなければならないのです」
「変わる……? どうやって?」
清栄は失笑する。
「私だって変えようとしたわよ! だからひなの薬に目をつけた! でも、あれは量産できないのでしょう? あなたがなにを成せるというの!?」
清栄は閉じた扇子を鋭く突きつける。
その手が怒りに震えているのに、ひなは気づく。
それでもひなは、落ち着いて一歩前に出た。
「……量産、できるかもしれません」
清栄がぎょっと目を見開く。
「……なんですって?」
「青蓮草の群生地を見つけました。その土地の持ち主の方にも許可をいただきました。これから、栽培研究も始めます。必ず、安定供給できるようにしてみせます」
清栄の視線をまっすぐに受け止めながら、ひなは一歩も引かなかった。
隣にいた慶一郎が、おもむろに口を開く。
「母上。俺は、ひなと共に薬を作り、新しい早乙女製薬を築いていきます。そして彼女と、人生を共にします。葛城家との婚約は──解消させていただきます」
きっぱりとした声に、座敷の空気が揺らぐ。
「そんな……あなたまで……。もう、早乙女家はおしまいよ……」
清栄の声がぽつりと落ちる。毅然としていたその背は小さくしぼみ、目の前で崩れ落ちていくようだった。膝の上に置かれた手は、わずかに震えているようにも見える。
誰よりも誇り高く、誰よりも強くあろうとしてきた人。
ひなに背を向け、すべてを諦めるように項垂れている。
でも──だからこそ、伝えなければならなかった。
「させません」
ひなは、全身に熱がこもるのを感じながら、唇を引き締め覚悟を込めて顔を上げる。
あの時、居場所を与えてくれたのは早乙女家だった。
慶一郎がひなの薬を手にしていなかったら、清栄が自分を探し当ててくれなかったら、山根が来てくれていなかったら──。自分は今、ここに立ってはいないだろう。
清栄の前に立ち、ひなは言葉を続ける。
「お約束します。早乙女家がおしまいだなんて、絶対にさせません。私は、大奥様の意志も引き継ぎます!」
涙を流すでもなく、声を荒げるでもなく。
ただ、まっすぐに想いを込めて。
ひなの視線が、清栄の瞳を真っ直ぐ捉えた。
清栄は唇を噛み締め、それ以上は何も言わなかった。
ひなは言葉を失い、ただ清栄の顔を見つめる。
この人は、本質的には何も変わっていない。
見た目の笑顔の奥にあるのは、早乙女家の名誉を守るための冷たい計算。
それだけは、決して手放さない女だ。
「あ、あの、大奥様……」
おそるおそるひなが声を発するが、清栄はにこやかに顔を向けたまま、間髪入れずに語り出す。
「前回の件は不運だったけれど、だからといって人生を止めてはいけないわ。今回はね、もっと慎重に選んだの。ちょっとお年はいってるんだけど、格式のあるお家柄の方でね。清白でなくてもいいっておっしゃっていて、三十歳手前でも構わないと。前の奥様は病気で亡くなったそうだけど、それ以外は非の打ち所がないの。この方なら、ひなにぴったり──」
「──母上!」
その言葉を遮ったのは、低く鋭い声だった。
慶一郎は眼鏡の奥の瞳を光らせ、一歩、前に出る。
清栄が、小さく眉をひそめた。
「母上。もう、やめましょう」
「なに……?」
「他人に頼る経営は、やめようと言っているのです。これまで母上がしてきたことは、ただの延命措置に過ぎません。篠宮家との縁談も、他家の支援も、すべては“その場しのぎ”でした」
慶一郎の言葉を聞いた清栄は、唇をわなわなと震わせた。
「……私の努力を否定するの?」
まるで爆発寸前の火薬のように、腹の底から沸き出た感情が、抑えられないでいる。
居並ぶ二人の間に緊張が走る。
ひなの身体は強張り、声を挟むことなどできなかった。
「私は……私だって、そうだった! 十九でこの家に嫁がされて……好きでもない男のもとに、政略の駒として送られて……!」
爪が食い込むかと思うほど拳を握りしめ、清栄は言葉を続けた。
「誰にも頼れなかったわ。家のために、必死で子を産んで、育てて……笑って……。そうしなければ、女なんてただの道具なのよ!」
その言葉に、ひなの胸がひりつき、かすかな痛みと同情を抱く。
──この人は、きっと誰にも弱音を吐けず、ずっとそうやって、自分を納得させながら生きてきたのだ。
けれど、そのやり方ではもう誰も幸せになれない。
ひなの隣で、慶一郎はうつむき加減で首を振る。
「母上のお話には同情いたしますし、否定もしません。ただ、終わりにしましょう。母上のやり方では、この家も、会社も、誰も救えない。今こそ変わらなければならないのです」
「変わる……? どうやって?」
清栄は失笑する。
「私だって変えようとしたわよ! だからひなの薬に目をつけた! でも、あれは量産できないのでしょう? あなたがなにを成せるというの!?」
清栄は閉じた扇子を鋭く突きつける。
その手が怒りに震えているのに、ひなは気づく。
それでもひなは、落ち着いて一歩前に出た。
「……量産、できるかもしれません」
清栄がぎょっと目を見開く。
「……なんですって?」
「青蓮草の群生地を見つけました。その土地の持ち主の方にも許可をいただきました。これから、栽培研究も始めます。必ず、安定供給できるようにしてみせます」
清栄の視線をまっすぐに受け止めながら、ひなは一歩も引かなかった。
隣にいた慶一郎が、おもむろに口を開く。
「母上。俺は、ひなと共に薬を作り、新しい早乙女製薬を築いていきます。そして彼女と、人生を共にします。葛城家との婚約は──解消させていただきます」
きっぱりとした声に、座敷の空気が揺らぐ。
「そんな……あなたまで……。もう、早乙女家はおしまいよ……」
清栄の声がぽつりと落ちる。毅然としていたその背は小さくしぼみ、目の前で崩れ落ちていくようだった。膝の上に置かれた手は、わずかに震えているようにも見える。
誰よりも誇り高く、誰よりも強くあろうとしてきた人。
ひなに背を向け、すべてを諦めるように項垂れている。
でも──だからこそ、伝えなければならなかった。
「させません」
ひなは、全身に熱がこもるのを感じながら、唇を引き締め覚悟を込めて顔を上げる。
あの時、居場所を与えてくれたのは早乙女家だった。
慶一郎がひなの薬を手にしていなかったら、清栄が自分を探し当ててくれなかったら、山根が来てくれていなかったら──。自分は今、ここに立ってはいないだろう。
清栄の前に立ち、ひなは言葉を続ける。
「お約束します。早乙女家がおしまいだなんて、絶対にさせません。私は、大奥様の意志も引き継ぎます!」
涙を流すでもなく、声を荒げるでもなく。
ただ、まっすぐに想いを込めて。
ひなの視線が、清栄の瞳を真っ直ぐ捉えた。
清栄は唇を噛み締め、それ以上は何も言わなかった。