あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
葛城家の庭園は、手入れの行き届いた見事な造りだった。
苔むした石灯籠が並び、澄んだ水を湛える池には錦鯉が泳いでいる。季節の花々が彩りを添え、どこを切り取っても絵になるような景色だ。
しかし、ひなの心はその美しさに浸る余裕などなく、ただ沙都子の足元を見ながらついていく。歩を進めるたびに、胸の鼓動が早まっていった。
「ひなさん」
沙都子は、ひなに背を向けたまま、鈴を転がすような声を発する。
「……はい」
「あなたが呼ばれた理由は、おわかりですわよね?」
「……ええ」
緊張で喉がからからに乾いている。
沙都子はそこで足を止め、振り返った。
「ですが──まずはお礼を言わせてください」
「え……?」
予想もしなかった言葉に、ひなは思わず顔を上げた。
丁寧な所作で、お辞儀をされる。
「あの時、慶一郎様を救ってくださって、ありがとうございます」
驚きに息が詰まった。てっきり咎められるとばかり思っていたのに。
湯乃谷屋で慶一郎が倒れたとき、沙都子はひなの静止を聞かず、わがままな態度を貫いていた。その印象が強すぎて、彼女という人間を誤解していたのかもしれない。
「わたくし、あれから反省いたしましたの。素人が手を出すべき場面ではなかったと」
「そんな……」
小柄で、年若いはずの沙都子。けれど今、真正面から向けられる視線の強さに、なぜかひなは自分より大きく見えてならなかった。
「──けれど、同時に怒りも湧いておりますのよ」
声色が変わる。背筋が凍りつき、ひなは慌てて深く頭を下げた。
「申し訳……ございません」
庭を吹き抜ける風が、沈黙を運ぶ。沙都子の次の言葉が重く落とされた。
「あなたがあの時、慶一郎様を助けたのは──薬師だから? それとも……彼を愛しているから?」
その問いに、すぐに答えることができなかった。いや、ひなの気持ちは決まっている。しかし、沙都子が望む答えは、納得する答えは、どちらなのか──そう考えてしまった。
それでも、ひなは正直に答えるしかなかった。唇を結び、顔を上げてまっすぐ沙都子を見る。
「……両方、でございます」
一瞬、空気が張りつめた。
沙都子の表情は笑っているのか怒っているのか分からず、ただ深い沈黙がふたりを包む。
ひなは視線を逸らさなかった。震える心を押さえ込み、彼女の反応を正面から受け止めようとした。
やがて、沙都子は小さく吐息を洩らす。
「──歯を食いしばってくださいまし」
「え……?」
──パシン!
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
熱を帯びた左の頬を押さえながら視線を上げると、沙都子が右手を左手で包み込むように押さえていた。その目は潤み、戸惑いが浮かんでいるように思える。
「……頬を叩いても、痛みは消えないのですね。わたくし、人に手をあげたのは初めてでしてよ」
「葛城様……」
「沙都子と、お呼びください」
「……いいのですか?」
「苗字は、あまり好きではありませんの」
緩やかに波打つ髪を払い、沙都子は空を見上げながらつぶやくように言った。
再びひなに背を向け、肩を震わせている。
それはまるで、かつて長屋にいた頃の、ひな自身の姿と重なって見えた。
苔むした石灯籠が並び、澄んだ水を湛える池には錦鯉が泳いでいる。季節の花々が彩りを添え、どこを切り取っても絵になるような景色だ。
しかし、ひなの心はその美しさに浸る余裕などなく、ただ沙都子の足元を見ながらついていく。歩を進めるたびに、胸の鼓動が早まっていった。
「ひなさん」
沙都子は、ひなに背を向けたまま、鈴を転がすような声を発する。
「……はい」
「あなたが呼ばれた理由は、おわかりですわよね?」
「……ええ」
緊張で喉がからからに乾いている。
沙都子はそこで足を止め、振り返った。
「ですが──まずはお礼を言わせてください」
「え……?」
予想もしなかった言葉に、ひなは思わず顔を上げた。
丁寧な所作で、お辞儀をされる。
「あの時、慶一郎様を救ってくださって、ありがとうございます」
驚きに息が詰まった。てっきり咎められるとばかり思っていたのに。
湯乃谷屋で慶一郎が倒れたとき、沙都子はひなの静止を聞かず、わがままな態度を貫いていた。その印象が強すぎて、彼女という人間を誤解していたのかもしれない。
「わたくし、あれから反省いたしましたの。素人が手を出すべき場面ではなかったと」
「そんな……」
小柄で、年若いはずの沙都子。けれど今、真正面から向けられる視線の強さに、なぜかひなは自分より大きく見えてならなかった。
「──けれど、同時に怒りも湧いておりますのよ」
声色が変わる。背筋が凍りつき、ひなは慌てて深く頭を下げた。
「申し訳……ございません」
庭を吹き抜ける風が、沈黙を運ぶ。沙都子の次の言葉が重く落とされた。
「あなたがあの時、慶一郎様を助けたのは──薬師だから? それとも……彼を愛しているから?」
その問いに、すぐに答えることができなかった。いや、ひなの気持ちは決まっている。しかし、沙都子が望む答えは、納得する答えは、どちらなのか──そう考えてしまった。
それでも、ひなは正直に答えるしかなかった。唇を結び、顔を上げてまっすぐ沙都子を見る。
「……両方、でございます」
一瞬、空気が張りつめた。
沙都子の表情は笑っているのか怒っているのか分からず、ただ深い沈黙がふたりを包む。
ひなは視線を逸らさなかった。震える心を押さえ込み、彼女の反応を正面から受け止めようとした。
やがて、沙都子は小さく吐息を洩らす。
「──歯を食いしばってくださいまし」
「え……?」
──パシン!
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
熱を帯びた左の頬を押さえながら視線を上げると、沙都子が右手を左手で包み込むように押さえていた。その目は潤み、戸惑いが浮かんでいるように思える。
「……頬を叩いても、痛みは消えないのですね。わたくし、人に手をあげたのは初めてでしてよ」
「葛城様……」
「沙都子と、お呼びください」
「……いいのですか?」
「苗字は、あまり好きではありませんの」
緩やかに波打つ髪を払い、沙都子は空を見上げながらつぶやくように言った。
再びひなに背を向け、肩を震わせている。
それはまるで、かつて長屋にいた頃の、ひな自身の姿と重なって見えた。