組長さんと年下彼女~今日から同棲始めます~
 将継はどう答えていいのか分からなくて思わずうつむいてしまう。
「んなシケた(つら)すんなよ、長谷川。俺、あの女から離れられて結構幸せなんだぜ?」
 ご飯の心配もなければ、暑さ寒さに耐える必要もない。
 冷暖房完備の部屋で、ぐっすり眠れる。しかもベッドで、だ。
 それだけでも物凄い進歩だろ? と笑う相良に、将継はギュッと胸が締め付けられるような気持ちがしたのを覚えている。


***


「京ちゃんの名前は……いなくなったお父様から……」
 長谷川社長と京介の幼少期の話を聞き終えた芽生(めい)は、ポツリとつぶやいた。
 車はとうの昔にスーパーの駐車場へ到着していたけれど、話の区切りがつくまでは……と、暖房の利いた車内で話し込んでしまっていた二人である。
「ああ。相良(さがら)はそう言っていたよ」

 長谷川社長と相良(さがら)京介は小学生時代からの付き合いだ。気が付けば他の友達にするように苗字呼びが定着していて、下の名前で呼び合うことなく現在に至る。仲良くなっていく中で最初の頃と変化があったとすれば、将継が相良を呼ぶ呼び名から〝くん〟がなくなっていたことくらい。
「そういえば相良は最初から私のこと、〝長谷川〟って呼び捨てにしていたな」
 いま気が付いたという風に長谷川社長が笑った。

「私たちはお互いを苗字で呼び合うのがしっくりくるからそうしているだけに過ぎないけど……女性はあいつを下の名で呼びたがるよね」
 ふとそこで気が付いたように、ルームミラー越しに芽生(めい)を見遣ってから、長谷川社長が続ける。
「考えてみれば私も静月(しづき)とは下の名で呼び合ってる。相手のことを〝個〟として捉えたいって思うと、人は自然に(せい)より(めい)の方で呼びたくなるものなのかも知れないね」
 そこまで言って、さもついでのように「相良も神田(かんだ)さんのこと、下の名で呼んでるでしょう?」と、長谷川社長がニヤリとする。そんな彼の顔をじっと見詰めたら、「最近、相良が神田さんのこと、〝子ヤギ〟って呼ばなくなったの、気付いてる?」と続けられて芽生は瞳を見開いた。
 そういえば……少し前まであんなにしょっちゅう京介から〝子ヤギ〟と呼ばれていたのに、最近はちっともそう呼ばれなくなっていることに、今更のように気付かされた芽生である。
 長谷川社長の言葉に芽生がこくんと(うなず)いたら、「アイツ、無意識なんだろうけどさ。昔っから結構呼び名にこだわるところがあるんだ」と、微笑まれた。

 確かに京介は、芽生が佐山(さやま)文至(ぶんし)をブンブンと呼ぶことを極端に嫌がる。
 それにしたって、ただ単に佐山(ブンブン)と自分の距離が近すぎることを京介が嫌がっているだけかと思っていたけれど、もしかしたらそれだけじゃないのかも知れない。

 そこまで考えた芽生は、ミラー越しにこちらを見つめる長谷川社長の視線をしっかり捉えて、言葉に決意を込めた。
「私も……許されるなら京ちゃんのこと、〝京介〟って呼んでみたいです」
 半ば長谷川社長に誘導される形で力強く宣言してみたものの、そうしただけで京介から冷たく拒絶されてしまった玲奈(れいな)のことを思い出した芽生は、情けないことにすぐさま「でも……」と語尾を揺らせてしまう。不安で不安で仕方がないのだ。
「京ちゃんは……『京介』って呼ばれることに幸せな記憶がないんですよね……?」
 もし自分が京介のことをそう呼ぶことで、イヤな記憶が呼び起こされてしまうのだとしたら、凄く悲しいことだと思った。
 どうして彼のお母さんはお腹を痛めて産んだ我が子のことを、もっと考えてくれなかったんだろう?
 推察しても仕方のないことにまで思いをはせてしまった芽生を引き戻したのは、長谷川社長の声だった。
「相良が前に言ってたんだよね。自分の名前は呪いみたいなもんだって……」
 その言葉に芽生が泣きそうになったら、ルームミラー越し。眼鏡の奥の色素の薄い瞳をスッと和らげて、長谷川社長が続けるのだ。
「けどさ、そんなの悲しすぎるじゃないか。――私はね、アイツの名前の呪いを解いてやれるのは……神田(かんだ)さんだけだと思ってる」
 長谷川社長の宣言に、芽生は小さく息を呑んだ。
「私に……そんなことが出来るでしょうか?」
 長谷川社長は芽生の方を振り返ってにっこり微笑むと、
「さっきも言ったでしょう? 神田さんに《《しか》》出来ないことだよ?」
 芽生は、京介からもらったチューリップモチーフの指輪にそっと触れると、いま長谷川社長に言われたばかりの言葉を自分自身に言い聞かせるように繰り返す。

「私にしか……出来ない……」

 芽生の言葉に、長谷川社長が静かに(うなず)いた――。
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