年下社長と秘密のシングルマザー
3・年下社長の秘密の気持ち
社長秘書の仕事は、想像していたよりもずっと忙しかった。
スケジュール管理に来客対応、急な資料作成……めまぐるしく過ぎていく。
だけど、不思議と嫌ではなかったし、何より高槻社長が時間の融通を利かせてくれるのがありがたかった。
「子どもが熱を出したら、遠慮せずすぐ帰っていい」
「……でも、それじゃあ社長にご迷惑が……」
「俺の秘書だろう? 君に無理をさせて仕事が回らなくなるほうが困る」
ぶっきらぼうに聞こえる言葉なのに、その実、誰よりも気遣ってくれていることが伝わってくる。
どんなに忙しい日でも「今日は定時で上がれ」と当然のように言ってくれる社長には感謝しかない。それと同時に、こんなに高待遇でいいのだろうかという申し訳なさも募っていた。
保育園へ迎えに行くと、柚が両手を広げて駆け寄ってくる。
「おかえり、ママ!」
その顔を見るたびに、ああ、高槻社長の提案を受けてよかったのかもしれない、と心から思った。
──しかし、社長秘書を始めて数日後。
休憩スペースでドリンクを買い、トレイに乗せて社長室へ向かおうとしたとき、近くの席から楽しげな声が耳に入った。
「今日、ロビーで高槻社長見ちゃった〜。眼福だったわ〜」
「イケメンだもんね〜。彼女とかいるのかな〜?」
若い女子社員二人が、社長の噂話に花を咲かせていた。
「そりゃあ、いるでしょ」
「だよね〜」
軽い調子で交わされる会話に、私は思わず足を止め聞き耳を立ててしまった。
そのとき、一人が声をひそめるように言った。
「あ、でもさ。あたし聞いたことあるんだけど」
「なに?」
「社長、シングルマザーばっかり狙ってるらしいよ」
トレイを持つ手が固まった。背筋に冷たいものが走る。
「えー、そういう趣味? それとも……寂しさにつけ込んでるとか?」
「かもねー。やだ、最低」
隣の女子の口から漏れた軽口も、今の私には恐ろしい警告のように響いた。
トレイを落としそうになり、慌てて力を入れてその場を去る。
(……私も、つけ込まれてる?)
小石を投げ込まれた水面のようにモヤモヤが広がる。
そう思うと、社長の優しい笑顔さえ裏に意図があるように見えてしまう。
それから私は、なるべく社長を避けるようになってしまった。
話しかけられても、業務上、必要最低限の言葉だけ。
廊下で会ったときは、会釈だけをして通り過ぎる──。
しかし、その変化を高槻社長が気づかないわけはなかった。
「村瀬さん。なぜ避ける?」
ある日、執務室で二人きりになったとき、高槻社長は不機嫌そうな声で問い詰めてきた。
「べ、別に……避けてなんか」
と口では否定しながらも、私は視線を外して資料を探すフリをする。
「嘘だ」
短く放たれたその言葉と同時に、社長の両腕が私の横に伸び、資料棚を塞ぐ。
棚と腕に挟まれて、息が詰まりそうになる。
今、振り返ったら──きっと、すぐそこに社長の顔がある。
どうしよう……言えば離れてくれるかもしれないけど……。
背中の方から鋭い視線を感じて、固唾を呑む。
「本当のことを言わないと──」
「……クビ、ですか?」
社長が言い終える前に口にすると、彼の手がぴくりと動いた。
その一瞬の隙を突いて、私は身を翻し、彼の腕の檻から抜け出す。
「だったら……どうぞ、クビにしてください! 私は同情なんていらないんです!」
胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
たしかに私は、柚のためならと思って秘書を引き受けた。だけど、同情してほしいわけじゃない。それなら、最初に言われた脅迫めいた提案の方が、まだ誠実に感じられる。
しかし、予想に反して社長は眉をハの字にして、まるで子どものように寂しげな目をこちらへ向けてきた。
な、なによ……急にそんな顔して。普段は冷静で隙のない人なのに……そんな年相応の表情を見せられたら、こっちの方が困るじゃない。
「同情なんてしてない」
彼の声がわずかに揺らぐ。
「じゃあ……なんで秘書になれなんて言ったんですか。私がシングルマザーだからですよね? 私の弱みにつけ込んでるんですよね?」
問い詰めるように口走った言葉に、短い沈黙が落ちる。
やがて高槻社長は、静かな口調で告げた。
「……つけ込んでると言われれば、そうかもしれない」
「……っ! やっぱり、あの噂は本当だったんですね……」
足元が崩れるような感覚に、膝が震えた。
「噂?」
社長の目が細められる。
「社長が、シングルマザーばかりを狙ってるって」
それを口にした途端、高槻社長は目を大きく見開き、信じられないものを聞いたようにむせ返った。
「だ、誰がそんな噂を」
「若い女子社員の間で……噂になってます」
社長は額に手を当て、苦笑にも似た小さな息を吐いた。
「いや……あながち間違いじゃないかも……」
「え……?」
肯定にも否定にも聞こえるその言葉が、かえって心を乱した。
「誤解しないでほしいんだが、狙ってるわけじゃない。ただ……シングルマザーを好きになってしまう傾向はあるのかもしれない」
淡々と告げられた声には、かすかに自嘲の影が混じっていた。
胸の奥を、ざらりと撫でられるような感じがした。
「それって……どういう意味ですか」
問い返すと、高槻社長はほんの一瞬、言葉を探すように黙り込んだ。
その沈黙がかえって苦しげに見えて、緊張が走る。
「俺は……とある性質で、普通の恋愛ができないんだ」
「性質……?」
社長はわずかに視線をさまよわせていた。
しばらく考えて、彼はようやく搾り出すように続けた。
「俺は……性的な欲求を抱かない。……ノンセクシャル、というやつだ」
「……ノン、セクシャル?」
耳慣れない言葉に、どう反応していいのかわからなかった。
けれど、どこかで読んだ知識が脳裏をかすめた。
恋愛感情は抱くけれど、性的な欲求を持たない人──。
手を繋ぐまでなら平気な人もいれば、抱きしめるところまでなら大丈夫な人もいる。境界線は人によって違う──。
「だから今まで恋愛がうまくいったことがない。相手に誤解され、責められ……結局、続かなかった」
高槻社長の声は辛そうだった。クールで、なんでもスマートにやってのけてしまう人だと思っていたのに、今は顔を赤らめ、必死に自分の中身を曝け出している。そんな繊細で大切なことを私に打ち明けてくれた──そう思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
彼はゆっくりと視線を伏せ、言葉を続けた。
「同じような相手を探そうとしたこともあった。だけど……出会える機会なんて滅多にない。仮に出会えても、どこかで噛み合わなかった」
冷静な仮面の裏に、こんな孤独を隠していたなんて──。思いもよらなかった事実に、心がざわつく。
「でも、子どもがいる女性なら……ただ愛情を分かち合えるんじゃないかと思った。守りたい、支えたい。そういう気持ちだけで寄り添えるから」
震えを帯びた声。取り繕いのない、まっすぐな告白に戸惑ってしまう。
「……結局、相手を戸惑わせてしまうんだ。応えられないのに惹かれてしまう。その矛盾が、どうしようもなく嫌になる」
「そんなこと……」
軽い気持ちで慰めていいものか迷い、言い切ることができなかった。社長の痛みに寄り添いたいのに、正しい言葉が見つからない。喉の奥で言葉がつかえて、ただ彼を見つめることしかできなかった。
「村瀬さんを不安にさせていたのなら、申し訳ない」
彼は一つ呼吸を整えると、私の手を取った。
思っていたよりも大きな手に包まれ、鼓動が速くなる。
「だけど……君に惹かれているのも事実だ。立場とか事情とか抜きにして、君と、君の子を守りたいと思ってしまった」
指先から熱が伝わってくる。
いつも冷静で近寄りがたいと思っていた社長の瞳が、その瞬間だけは痛いほど熱を帯びて見えた。
かあっと頬に熱が上がるのがわかる。言葉が出なくなる。母親としての私をまるごと肯定する言葉が胸に沁みて、どうしようもなく嬉しい。けれど同時に──女として危うく心を奪われそうになる自分が怖かった。
彼の顔が、さらに近づく。
距離がゼロになるのではと思うほど、逃げ場のない眼差しに絡め取られる。
「……君さえよければ、俺と付き合ってはくれないだろうか」
鼓動が、喉元までせり上がってくる。
「えっ……?」
自分の声が裏返ったのがわかった。
高槻社長は、それでも一切揺るがない瞳で私を見つめ続ける。
「返事は急がなくていい。だが、俺の気持ちは本当だ」
真剣な声が、胸の奥深くに突き刺さる。
笑ってごまかすことも、軽く受け流すこともできなかった。
視線を逸らせば、たちまち崩れてしまいそうで……。
私はただ、固まったまま彼の瞳を受け止めるしかなかった。
スケジュール管理に来客対応、急な資料作成……めまぐるしく過ぎていく。
だけど、不思議と嫌ではなかったし、何より高槻社長が時間の融通を利かせてくれるのがありがたかった。
「子どもが熱を出したら、遠慮せずすぐ帰っていい」
「……でも、それじゃあ社長にご迷惑が……」
「俺の秘書だろう? 君に無理をさせて仕事が回らなくなるほうが困る」
ぶっきらぼうに聞こえる言葉なのに、その実、誰よりも気遣ってくれていることが伝わってくる。
どんなに忙しい日でも「今日は定時で上がれ」と当然のように言ってくれる社長には感謝しかない。それと同時に、こんなに高待遇でいいのだろうかという申し訳なさも募っていた。
保育園へ迎えに行くと、柚が両手を広げて駆け寄ってくる。
「おかえり、ママ!」
その顔を見るたびに、ああ、高槻社長の提案を受けてよかったのかもしれない、と心から思った。
──しかし、社長秘書を始めて数日後。
休憩スペースでドリンクを買い、トレイに乗せて社長室へ向かおうとしたとき、近くの席から楽しげな声が耳に入った。
「今日、ロビーで高槻社長見ちゃった〜。眼福だったわ〜」
「イケメンだもんね〜。彼女とかいるのかな〜?」
若い女子社員二人が、社長の噂話に花を咲かせていた。
「そりゃあ、いるでしょ」
「だよね〜」
軽い調子で交わされる会話に、私は思わず足を止め聞き耳を立ててしまった。
そのとき、一人が声をひそめるように言った。
「あ、でもさ。あたし聞いたことあるんだけど」
「なに?」
「社長、シングルマザーばっかり狙ってるらしいよ」
トレイを持つ手が固まった。背筋に冷たいものが走る。
「えー、そういう趣味? それとも……寂しさにつけ込んでるとか?」
「かもねー。やだ、最低」
隣の女子の口から漏れた軽口も、今の私には恐ろしい警告のように響いた。
トレイを落としそうになり、慌てて力を入れてその場を去る。
(……私も、つけ込まれてる?)
小石を投げ込まれた水面のようにモヤモヤが広がる。
そう思うと、社長の優しい笑顔さえ裏に意図があるように見えてしまう。
それから私は、なるべく社長を避けるようになってしまった。
話しかけられても、業務上、必要最低限の言葉だけ。
廊下で会ったときは、会釈だけをして通り過ぎる──。
しかし、その変化を高槻社長が気づかないわけはなかった。
「村瀬さん。なぜ避ける?」
ある日、執務室で二人きりになったとき、高槻社長は不機嫌そうな声で問い詰めてきた。
「べ、別に……避けてなんか」
と口では否定しながらも、私は視線を外して資料を探すフリをする。
「嘘だ」
短く放たれたその言葉と同時に、社長の両腕が私の横に伸び、資料棚を塞ぐ。
棚と腕に挟まれて、息が詰まりそうになる。
今、振り返ったら──きっと、すぐそこに社長の顔がある。
どうしよう……言えば離れてくれるかもしれないけど……。
背中の方から鋭い視線を感じて、固唾を呑む。
「本当のことを言わないと──」
「……クビ、ですか?」
社長が言い終える前に口にすると、彼の手がぴくりと動いた。
その一瞬の隙を突いて、私は身を翻し、彼の腕の檻から抜け出す。
「だったら……どうぞ、クビにしてください! 私は同情なんていらないんです!」
胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
たしかに私は、柚のためならと思って秘書を引き受けた。だけど、同情してほしいわけじゃない。それなら、最初に言われた脅迫めいた提案の方が、まだ誠実に感じられる。
しかし、予想に反して社長は眉をハの字にして、まるで子どものように寂しげな目をこちらへ向けてきた。
な、なによ……急にそんな顔して。普段は冷静で隙のない人なのに……そんな年相応の表情を見せられたら、こっちの方が困るじゃない。
「同情なんてしてない」
彼の声がわずかに揺らぐ。
「じゃあ……なんで秘書になれなんて言ったんですか。私がシングルマザーだからですよね? 私の弱みにつけ込んでるんですよね?」
問い詰めるように口走った言葉に、短い沈黙が落ちる。
やがて高槻社長は、静かな口調で告げた。
「……つけ込んでると言われれば、そうかもしれない」
「……っ! やっぱり、あの噂は本当だったんですね……」
足元が崩れるような感覚に、膝が震えた。
「噂?」
社長の目が細められる。
「社長が、シングルマザーばかりを狙ってるって」
それを口にした途端、高槻社長は目を大きく見開き、信じられないものを聞いたようにむせ返った。
「だ、誰がそんな噂を」
「若い女子社員の間で……噂になってます」
社長は額に手を当て、苦笑にも似た小さな息を吐いた。
「いや……あながち間違いじゃないかも……」
「え……?」
肯定にも否定にも聞こえるその言葉が、かえって心を乱した。
「誤解しないでほしいんだが、狙ってるわけじゃない。ただ……シングルマザーを好きになってしまう傾向はあるのかもしれない」
淡々と告げられた声には、かすかに自嘲の影が混じっていた。
胸の奥を、ざらりと撫でられるような感じがした。
「それって……どういう意味ですか」
問い返すと、高槻社長はほんの一瞬、言葉を探すように黙り込んだ。
その沈黙がかえって苦しげに見えて、緊張が走る。
「俺は……とある性質で、普通の恋愛ができないんだ」
「性質……?」
社長はわずかに視線をさまよわせていた。
しばらく考えて、彼はようやく搾り出すように続けた。
「俺は……性的な欲求を抱かない。……ノンセクシャル、というやつだ」
「……ノン、セクシャル?」
耳慣れない言葉に、どう反応していいのかわからなかった。
けれど、どこかで読んだ知識が脳裏をかすめた。
恋愛感情は抱くけれど、性的な欲求を持たない人──。
手を繋ぐまでなら平気な人もいれば、抱きしめるところまでなら大丈夫な人もいる。境界線は人によって違う──。
「だから今まで恋愛がうまくいったことがない。相手に誤解され、責められ……結局、続かなかった」
高槻社長の声は辛そうだった。クールで、なんでもスマートにやってのけてしまう人だと思っていたのに、今は顔を赤らめ、必死に自分の中身を曝け出している。そんな繊細で大切なことを私に打ち明けてくれた──そう思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
彼はゆっくりと視線を伏せ、言葉を続けた。
「同じような相手を探そうとしたこともあった。だけど……出会える機会なんて滅多にない。仮に出会えても、どこかで噛み合わなかった」
冷静な仮面の裏に、こんな孤独を隠していたなんて──。思いもよらなかった事実に、心がざわつく。
「でも、子どもがいる女性なら……ただ愛情を分かち合えるんじゃないかと思った。守りたい、支えたい。そういう気持ちだけで寄り添えるから」
震えを帯びた声。取り繕いのない、まっすぐな告白に戸惑ってしまう。
「……結局、相手を戸惑わせてしまうんだ。応えられないのに惹かれてしまう。その矛盾が、どうしようもなく嫌になる」
「そんなこと……」
軽い気持ちで慰めていいものか迷い、言い切ることができなかった。社長の痛みに寄り添いたいのに、正しい言葉が見つからない。喉の奥で言葉がつかえて、ただ彼を見つめることしかできなかった。
「村瀬さんを不安にさせていたのなら、申し訳ない」
彼は一つ呼吸を整えると、私の手を取った。
思っていたよりも大きな手に包まれ、鼓動が速くなる。
「だけど……君に惹かれているのも事実だ。立場とか事情とか抜きにして、君と、君の子を守りたいと思ってしまった」
指先から熱が伝わってくる。
いつも冷静で近寄りがたいと思っていた社長の瞳が、その瞬間だけは痛いほど熱を帯びて見えた。
かあっと頬に熱が上がるのがわかる。言葉が出なくなる。母親としての私をまるごと肯定する言葉が胸に沁みて、どうしようもなく嬉しい。けれど同時に──女として危うく心を奪われそうになる自分が怖かった。
彼の顔が、さらに近づく。
距離がゼロになるのではと思うほど、逃げ場のない眼差しに絡め取られる。
「……君さえよければ、俺と付き合ってはくれないだろうか」
鼓動が、喉元までせり上がってくる。
「えっ……?」
自分の声が裏返ったのがわかった。
高槻社長は、それでも一切揺るがない瞳で私を見つめ続ける。
「返事は急がなくていい。だが、俺の気持ちは本当だ」
真剣な声が、胸の奥深くに突き刺さる。
笑ってごまかすことも、軽く受け流すこともできなかった。
視線を逸らせば、たちまち崩れてしまいそうで……。
私はただ、固まったまま彼の瞳を受け止めるしかなかった。