年下社長と秘密のシングルマザー

5・年下社長と秘密の視線

 夕方の空はすでに暮れかけていて、私は小走りで保育園に駆け込んだ。
 お迎えが遅れそうになったのは久しぶりだ。柚が不安そうに待っていないか、それだけが心配だった。
 保育士さんと一言二言交わし、柚が靴を履くのを見守っていると、ちょうど隣のクラスのケンタくんと一緒になった。
 
「あ、ケンタくんだ!」

 柚がぱっと表情を明るくして駆け寄っていく。
 その先には田辺さんの姿があった。たしか彼も、私と同じシングルファザーだったはずだ。
 
「こんにちは」
 
 軽く会釈を交わし、そのまま自然に並んで門へ向かう形になる。

「毎日、大変ですよね」
「そうですね」
 
 ありふれた挨拶のようなやりとり。
 門の近くで立ち止まると、言葉の流れでそのまま立ち話になった。
 
「ママ、ケンタくんと遊んできていい?」
「いいわよ」

 大人の話はつまらない、とでもいう風に、二人はジャングルジムの方へ行ってしまう。

「うちのケンタが、いつも仲良くしてもらって……ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ! 逆にご迷惑じゃないですか?」
 
 柚は人懐こいがゆえに、少々強引なところもあるから、お友達と仲良くできているのか心配になってしまう。そんな気持ちを口にすると、彼は小さく手を振って、苦笑まじりに答えた。
 
「そんな全然! ケンタも喜んでます。父親だけじゃ、手に負えないこともあるもので」

 その言葉を、思わず自分に置き換えてしまう。
(──母親だけじゃ、手に負えないこともあるのかな……)
 考え込んでいると、彼はつぶやくように口を開いた。
 
「シングルで子育てって、心細いですよね。僕も同じなんで、気持ちわかりますよ」

 その言葉に、私は小さく瞬きをした。
 ──心細い?
 たしかに、不安や大変さ、苦しさはある。
 
 仕事と育児の両立で、息が詰まりそうになる夜だってあった。
 だけど、それを『心細い』と呼ぶのは、どこか違う気がする。
 毎日は慌ただしくて、あっという間に過ぎていく。
 笑ったり泣いたり怒ったり──柚と一緒に過ごす時間は、たしかに大変だけれど、そのぶん充実していて。
 心細いどころか、むしろ満たされている瞬間も多いのに。
 
「あの、ちょっと相談というか、提案なんですが」
「はい?」
「……もしよかったら、時々僕が送り迎え、手伝いますよ」
「……え?」
 
 そう言われた瞬間、善意であるはずの言葉なのに、胸にモヤモヤが広がった。
 にこやかに、気を遣わせないように世間話の延長で言ったのかもしれない。
 だけど、この人とは子育てのなにかが根本的に違うような気がする。

「いえ、大丈夫です」
 
 笑顔を作ってかわそうとした。
 けれど彼は引き下がらない。むしろそこからが本番とばかりに、さらに言葉を重ねてくる。
 やんわり断っているのに、彼の目は笑っていなかった。
 気づけば彼の靴先が一歩、二歩とこちらに迫ってきて、私のパーソナルスペースがじわじわと削られていく。
 
「じゃあせめて連絡先だけでも。困ったときは頼ってほしいんです」

 背筋がぞわりとした。無理やりスマートフォンを押し付けられそうな圧に、慌てて後ずさる。
 
「すみません、お気持ちだけで。──柚! 帰るわよ!」

 小さな柚に助けを求めるように呼んでしまった。
 でも、そうでもしないと押し切られそうで、怖かった。
 柚の手を引いて、小走りで自転車へ向かう。
 追ってこないか不安だったけれど、ケンタくんもいたためかその様子はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
 
 ──しかし、その数日後から、誰かの視線を感じるようになった。
 保育園からの帰宅途中や買い物のとき、誰かに見られているような気がする。
 後ろを振り返っても人影はなく、ただ胸の鼓動だけが早まる。
 夜道で背後から足音がついてくるのを聞いたとき、恐怖が頂点に達した。

 私一人だけなら、なんとかなる。
 だけど、柚と一緒のときになにかあったらと思うと、怖くて仕方がなかった。
(母親なんだから、息子一人守れなくてどうするの……)
 自分にそう言い聞かせる。でも私はただの女で、力もない。
 一人で抱え込むには、あまりにも重すぎる不安だった。

 そんなある日。
 執務室でデスクに向かっていると、高槻社長に声をかけられた。
 
「どうかしたのか?」
「えっ?」

 顔を上げると、社長が真っ直ぐこちらを見ていた。
 
「いや……さっきからため息ばかり」
「そ、そんなに……?」

 どうやら、自分でも気づかないうちに不安や迷いが顔に出てしまっていたらしい。

(社長に相談してみようか……? でも……)
 
 ──言おうか、言わないでおこうか。
 迷いが心を行き来する。
 ただの思い過ごしかもしれない。疲れて神経質になっているだけかもしれない。
 迷惑かもしれない。
 それでも──ひとりで抱え込むには、もう限界だった。

「あの、社長……」
 
 勇気をかき集めるように、私は唇を開く。
 
「……保育園の帰り、誰かにつけられている気がするんです」
 
 そう告げた瞬間、弱い自分を見せてしまったようで胸の奥がひりついた。
 高槻社長は眉をひそめ真剣な表情で、そのまま席を立ち、迷いなく私の隣へ歩み寄ってきてくれた。
 
「ありがとう、相談してくれて」

 そう言われただけで、張りつめていた心がわずかに和らぐ。

「俺がなんとかする」

 力強いその言葉と共に、彼の大きくて温かい手がふわりと頭を撫でた。
 頼れる人が隣にいるというだけで、恐怖が少しだけ遠のいていくのを感じた。


 
 保育園の帰り道、柚を乗せた自転車を走らせる。
 さっきまで空は茜色に染まっていたのに、気づけばすっかり影が濃くなっている。
 でも、このスピードならつけられる心配はないだろう。
 そう思ってアパートに真っ直ぐ帰ると──。

 田辺さんが……いた。

(しまった……! 待ち伏せ……まさかアパートを知られていたなんて……!)

 やっぱり、最近のストーカーは彼だったんだ!

「あーっ! ケンタくんのパパだ!」

 なにも知らない柚は、無邪気に大きな声で彼を呼んだ。
 このままUターンして逃げようと思っていたのに、それもできなくなってしまった。

「ああ、良かった、村瀬さん。やっぱりこのアパートだったんですね。忘れ物を届けにきたんです」

 にこやかな笑みを浮かべながら、田辺さんは自転車の進路をふさぐように一歩前へ出る。
 そんなもの、保育園で渡してくれればいいのに。どうしてわざわざここまで──。

「柚くんのハンカチ、ケンタの鞄に紛れ込んでまして……」
「ありがとう……ございます……」

 ぎこちなく礼を言いながら、私は手を伸ばす。
 たしかに、先日柚のハンカチがなくなっていた。でも本当に偶然紛れたのか、それとも彼がこの状況を作るために仕組んだのか……。疑念が頭を離れない。
 訝しげに視線を送っても、田辺さんはにこやかなまま。何も気にしていないようにポケットからスマートフォンを取り出した。
 
「こういうこともありますから、やっぱり連絡先、教えてもらえませんか? 不便ですよね」
「田辺さん、これからは保育園を通していただけますか? こういうことはやっぱり──」

 ──早く、いなくなって……と心の中で念じながら答えた、そのときだった。
 視線の先に高槻社長が現れ、いつもより低い口調で言った。
 
「彼女の言う通りだ」
< 5 / 7 >

この作品をシェア

pagetop