年下社長と秘密のシングルマザー

6・年下社長と秘密の抱擁

 高槻社長のあまりにも低い声に、思わずビクっと肩が跳ねた。
 どうやら、アパートの死角から様子をうかがっていたらしい。
 驚いて息を呑む私とは対照的に、田辺さんは一瞬顔をこわばらせ、すぐに不自然な笑みを取り繕った。

「……どちら様ですか?」

 田辺さんの声は、警戒心と苛立ちが混じっていた。
 社長は一瞬も視線を逸らさず、淡々と答える。
 
「俺は彼女の──婚約者だ」
「……っ!」
 
 高槻社長の迷いのない声に、息が止まるかと思った。
 助けるための嘘だとわかっているのに、心臓が鳴り止まない。
 田辺さんは一瞬たじろぎ、作り笑いが引きつる。
 
「こ、婚約……? そ、そうでしたか……。いえ、誤解なんですよ。保育園の関係で連絡先を訊こうとしただけで……」
 
 言い訳を並べる田辺さんの声は震えていた。
 社長は私の横に立ち、さりげなく自転車のハンドルを握った。
 その仕草だけで、恐怖がすっと和らいでいくのを感じる。

「彼女が迷惑そうにしているのがわからないのか?」
「ひ……っ!?」

 社長の目は、氷のように冷たかった。
 一切の感情を削ぎ落としたその眼差しは、まるで人を切り捨てる刃のようだ。
 視線を合わせた瞬間、田辺さんは息を呑み、さらに顔が引きつっていく。
 まるで全身を締め上げられるような圧に、言葉も続かない。
 
「……いや……そんなつもりじゃ……」
 
 上ずった声で必死に弁解するが、冷血な視線は一瞬たりとも緩まなかった。
 
「村瀬さん、このことは保育園に報告しておいた方がいい」

 突き放すような響きに、田辺さんは慌てふためいて膝をつき、すがるように震える声で言った。

「すみません! それだけは……!!」

 必死の懇願に、私は思わず唇を噛んだ。
 もし本当に報告すれば、ケンタくんはもう保育園に通えなくなるかもしれない。
 そうなれば、シングルの田辺さんは仕事に出られなくなるだろう。
 なにより、罪のない子どもが犠牲になるなんて──。
 同じ親として、少し同情してしまった。
 
「あの……。田辺さんもシングルなんです。保育園に通えなくなるのは大変だと思うので、今回だけは……」
 
 震える声でそう言いながら、私は社長のスーツの裾をそっとつまんだ。
 冷徹な視線は、再び田辺さんへ向けられる。
 
「今回だけは見逃す。だが──次に彼女につきまとったら、そのときは保育園だけじゃ済まないと思え」
「は、はいぃっ!」
 
 田辺さんは慌てて立ち上がり、逃げるように去った。
 私は、まだ鼓動が早くて呼吸もうまく整わない。
 社長のスーツの裾をつまんだまま、目を閉じて項垂れた。

 社長が来てくれていなかったら、どうなっていただろう。
 けれど、さっきの「婚約者」の言葉が頭から離れなくて、この胸の高鳴りは恐怖なのか、ときめきなのかわからなくなる。
 ようやく落ち着きを取り戻すと、気が緩んでじわりと目頭が熱くなった。
 社長はなにも言わず、ずっと私の肩に手を置いて傍にいてくれた。
 そんな私の様子を見て口を開いたのは、意外にも柚だった。
 
「ママ、だいじょうぶ……?」

 不安そうな声。顔を上げると、柚が涙目で私を見つめている。
 
「ケンタくんのパパ……わるい人……?」
 
 胸がぎゅっと締めつけられる。
 子どもにこんな思いをさせたくなかったのに。

「……大丈夫よ、柚。もう怖いことはないから」

 必死に笑顔を作って答えると、社長が静かに口を開いた。

「そうだ。もう心配はいらない。君とママは、俺が守るから」

 その言葉が胸に響き、呼吸が少しずつ整っていくのを感じた。
 

 
 アパートの駐輪場まで見送りに来てくれた高槻社長に、私は深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました、しゃちょ──」

 言い終える前に、ふわりと腕が伸びてきて、そのまま抱きしめられる。

「まったく、君はお人よしがすぎる」
「でも……同じ園の人なので……」
「すぐに手を打って良かった……」

 スーツがしわになるくらい、ぎゅうっと力を込められる。
 お互いの鼓動が重なり合って、うるさいくらいに胸を震わせていた。
 そのとき──。
 
「さっき……咄嗟に言ってしまってすまない」

 耳元で、囁くように言われる。
 
「……え?」
「“婚約者”と……」

 助けるための方便だって、わかってる。
 けれど、私の気持ちは──。
 
「いえ……うれしかったです……」

 もう、保留になんてできないくらい、高槻社長に惹かれてしまっている。
 高槻社長は耳まで赤くなっていた。
 
「あの、社長……」
「な、なに……?」
 
 彼の腕の中で、もぞりと身じろいで訊ねる。

「抱きしめるのは……大丈夫なんですね?」

 そう言うと、彼は少しだけ力を緩めて距離を取る。
 
「あ、ああ。そう、だな……。安心して、つい……」
「……もしかして、初めてなんですか?」
 
 信じられない思いで問いかけると、彼はほんのり頬を染め視線を逸らした。

「自分から抱きしめようと思ったのは、初めてかもしれない」
 
 胸がドクンと高鳴る。ずっと恋愛に踏み込むことを避けていた彼が、自分から抱きしめるなんて──私が初めてなんだと思うと、思わずうれしくなった。
 そのとき、背後から弾む声が響いた。

「ママ! 社長! ずるい! 僕も“大好き”する!」

 柚は後部座席から身を乗り出し、両手を広げていた。
 ……そういえば、柚が見ていたんだった、恥ずかしい……。
 一気に顔が熱くなり、どうしていいかわからず固まる私に、社長は目を細めて微笑む。

「もちろんだ」

 その大きな腕がもう一度広がり、今度は柚ごと私を包み込んだ。
 不思議な安心感に胸が満たされていく。
 子どもの笑い声と、強くて優しい腕のぬくもりに挟まれて、私はそっと目を閉じた。
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