恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜
「今回、高峰と同行させてもらっています、佐伯です。少しだけ、発言させていただいてもよろしいでしょうか?」


社長の視線が、有紀へと移る。


「……まずは、本日の訪問について、不快なお気持ちにさせてしまい、申し訳ございません。
私たちにとっても、大切なご訪問だったのに、時間の不手際がありましたこと、心よりお詫び申し上げます」


頭を下げ、静かに息を吸って。



「……私、今回が初めての出張なんです」



一瞬、社長の眉がぴくりと動く。



「初めての場所で、初めてお会いする方に失礼があってはいけないと思って、ずっと緊張していました。……でも、今日お話しできるのを楽しみにしていたんです。御社のこと、たくさん調べてきました」


そう言って、有紀はバッグから小さなファイルを取り出す。



「これは、御社の製品を導入されたお取引先の声を、独自に集めたものです。
ネットには出てこないような“現場の声”が多くて──」



「むしろ、私たちが学ばされることばかりでした。
だからこそ、そういった声をもとに、今後のご提案ができたらと考えております」



社長の表情が少しだけ動く。



「……現場の声、か」


「はい。
会社の規模や知名度ではなく、実際に使われている現場で、“誰がどう感じているか”。
それが、私たちにとっては一番のヒントになると思っています」



有紀が差し出したファイルを、社長は無言で受け取った。



パラパラとページをめくりながら、視線を止め、眉をひそめ──いや、わずかに目を細めていた。


一言も発しないまま、しかしどこか、驚きと関心を滲ませるように、静かにページを追っていく。


「……これは、よく調べてますね」


ぽつりと漏れたその声には、明らかに先ほどとは違う温度があった。


「……現場の課題、こんなふうに見てくれてたんですね。うちの営業すら、ここまでは聞いてこなかったですよ」



それはまるで、長く忘れかけていた“自分たちの価値”を思い出したかのような──


そんな言葉だった。



しんとした沈黙が流れたあと、社長がふっと息をついて、有紀に目を向けた。



「……本当に、初めての出張?」


「はい。……でも、気持ちは本物です」



ゆっくりとファイルを閉じた社長が、小さく頷く。



「……わかった。話だけでも、聞かせてもらいましょうか」

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