【完結】恋はあの人に、堕ちたのは君に。〜今日も意地悪な同期の腕の中で〜
──そんなことを考えていたときだった。
給湯室で紙コップにコーヒーを注いでいた私に、背後から聞き慣れた声が届いた。
「……出張、おつかれ。大活躍だったらしいじゃん」
びくっと肩が跳ねた。
振り向くと、そこには黒瀬くんがいた。
ネクタイをゆるめた、いつものラフな姿。
けれど、その瞳の奥の色は、少しだけ読み取れなかった。
「……ありがとう」
「クライアント、相当佐伯のこと気に入ったって聞いたけど。課長もべた褒めだったらしいじゃん」
「……たまたまだよ」
口ではそう言いながらも、胸のざわつきは消えてくれなかった。
黒瀬くんは、そんな私の表情をじっと見ていたかと思うと、声を低くする。
「……なんか浮かない顔してるけど、どうかした?」
「べ、別に……なにもないよ」
「高峰と、なんかあった?」
その一言で、心臓が跳ねた。
「……え?」
「告られた?」
「こ、告白はされてないよ!」
慌てて否定する私を、黒瀬くんは真顔で見つめたまま口を開く。
「でも、なにか言われたんだろ」
強く詰められてるわけじゃないのに、不思議と逃げ場のない感じがした。
視線を逸らして、思わず口が動いてしまう。
「……今度、デートしようって……言われた」
その言葉と同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
何に対してなのか、自分でもよくわからなかった。
黒瀬くんの反応が怖くて、私は顔を伏せる。
だけど──
「ほんと、お前って隠すの下手だな。社内恋愛、向いてない」
そう言って笑った彼の声は、どこか優しくて、でも遠く感じた。
「……う、うるさい……」
悔しくて、視線をそらす。 なのに、黒瀬くんはあっさりと肩をすくめて、こう言った。
「行ってくれば? 高峰とのデート」
「……え?」
あまりにあっけらかんとした声に、思わず問い返す。
黒瀬くんは、まるでどうでもいいことのように、気楽に続けた。
「止める権利、俺にはないし。……お前が行きたいなら、行けばいいじゃん」
その言葉も、その表情も。
あの夜のことなんて、何もなかったみたいに、軽くて。
怒ってるわけでも、寂しそうでもない。 引き止めてくれる気配なんて、微塵もなかった。
(……なにそれ)
きゅうっと、胸の奥が痛む。
私が誰とデートしても、なんとも思わないの?
あんなふうに抱きしめたくせに。
私の名前を、あんな声で呼んだくせに。
「……ほんと、ずるい」
ぽつりとこぼれた言葉に、黒瀬くんはほんの一瞬だけ眉を寄せた。
でも、何も言わずに目を逸らし、そのまま背を向けて歩き出す。
その背中に、呼び止める言葉は出てこなかった。
(……私、黒瀬くんに、なんて言ってほしかったんだろう)
高峰くんとのデートを、止めてほしかった?
「行くな」って、引き止めてほしかった?
……わからない。
自分の気持ちも、黒瀬くんの気持ちも。 ただひとつ確かなのは──
あの日、名前を呼ばれて、 強く抱きしめられた熱だけが、まだ身体に残っていることだけだった。