ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第10話 笑いで隠すのは下手

 火曜の二十時。ホテルの地下にある厨房裏は、冷蔵庫の低い唸りと、金属の台に落ちる水滴の音だけが目立っていた。表の厨房からは皿が重なる乾いた音と、誰かの短い指示が遠くに聞こえる。優はドアの脇で帽子のゴムを整え、深呼吸を一つだけしてから、中へ入った。

 「お疲れさまでーす。今日も、月みたいに丸くいきましょう」
 自分の声がやけに軽く響いて、優は笑って誤魔化した。笑えば手元も軽くなる、はずだった。

 作業台に並んでいるのは、焼き上がったマカロンの殻。薄い貝殻みたいに繊細で、触れ方ひとつで機嫌を変える。優はトレーを引き寄せ、温度の落ち具合を指先で確かめた。クリームを挟む工程に入る、ちょうどいい頃合い。

 そのはずなのに。
 ひとつ、指が滑った。

 「……っ」

 殻の表面に、細いひびが走る。ひびは一瞬で広がり、パキン、と小さな音を立てて割れた。優は呼吸を止めたまま、その割れ目を見つめる。割れたのは一個だけ。けれど胸の奥では、もっと大きな何かが割れた音がした。

 「……大丈夫?」
 背後から声がした。ちほだった。紙コップを片手に、優の肩越しにトレーを覗き込む。
 優は無理に口角を上げた。
 「大丈夫。これ、こっちに回して、ええと……割れても、中身は同じだから」
 言いながら、喉の奥が引っかかった。中身は同じ。そう言いたいのに、割れ目ばかりが目に入る。

 ちほは割れた殻を指でつまみ、台の端へそっと移した。
 「これ、試食に回す。誰かが幸せになる」
 淡々と言って、紙コップを優の手元に置く。中身は水だった。温度も味も、何も主張しない。
 優はそれを受け取って、二口だけ飲んだ。水が喉を通ると、張りついていた息が少しだけ戻った。

 「……私、さ。今日、笑い方が変だよね」
 言ってしまってから、優は目を丸くした。言うつもりなんてなかったのに。

 ちほは台を拭く手を止めずに答えた。
 「普段も変だけど、今日は余計に変」
 遠慮のない言い方に、優は笑ってしまいそうになって、笑えなかった。

 そこへ、厨房裏のドアが開いた。
 冷たい空気が少しだけ流れ込み、背の高い影が差す。

 颯人だった。

 スーツの上着は脱いで腕にかけている。いつもなら資料を抱えている腕が、今日は何も持っていない。視線は作業台の上で止まった。割れた殻の端、拭きかけの台、優の握りしめた紙コップ。
 颯人は何も聞かずに、袖をまくり、壁のフックからエプロンを一枚取った。

 ちほが小さく「……え、ここまでやる人?」と呟いた。
 颯人は聞こえないふりをして、台拭きを受け取り、濡れた部分を手早く拭き直す。布が台の上を滑る音が、やけに落ち着いて聞こえた。

 火曜の二十一時。片付けがひと段落したころ、優は台の端に残っていた割れた殻を見つめていた。クリームを挟めば形は整う。けれど、割れたことは消えない。
 優は胸の前で手を握り、指先を揉んだ。粉糖がまだ少しだけ残っている。甘さの粉が、皮膚の乾いたところに入り込んで、痛い。

 颯人が隣に立って、手を止めた。
 「……難しいのか」
 質問は短かった。責める形じゃない。確認する形でもない。ただ、事実を確かめるための声。

 優は喉が鳴るのを感じた。
 「難しいです。……今日だけじゃなくて。ずっと」
 言葉が落ちると、肩が勝手に下がった。胸の奥の緊張が、少しだけほどける。
 「私、あの……匂いとか、言葉とか、そういうのを追いかけてると、手が止まるんです。止まったら、間に合わなくなる。間に合わないと、誰かに迷惑がかかる。迷惑って、取り返しがつかない気がして」

 ちほが「それ、いつものやつ」と短く言って、荷物をまとめ始めた。空気を読んだのか、単に帰りたいのかは分からない。けれど、優はその「いつものやつ」に救われた。自分がここで倒れたとしても、世界はきちんと回る。そう思えたから。

 颯人は割れた殻を一つ手に取り、割れ目を確かめた。指先が殻を潰さない。力の入れ方が、やけに丁寧だった。
 「迷惑は、取り返す方法を探せる。黙って消えるほうが、取り返せない」
 それだけ言って、颯人は殻を台に戻した。台に置く音が小さくて、優は目を伏せた。

 「……私、また『私がやりました』って、言いそうでした」
 優は笑いかけて、途中で止めた。笑いで隠すのは、どうやら自分は下手らしい。

 颯人が、少しだけ首をかしげる。
 「言えばいい。今度は、俺に聞こえる声で」
 たったそれだけの言葉なのに、優の喉の奥が熱くなった。

 深夜零時半。スイートの窓の外に、湾岸の灯りが点々と散っていた。冷蔵庫の前で立ち尽くす癖が抜けず、優はまた、意味もなく扉を開けた。中にはヨーグルトと、買い置きの果物と、ラップをかけた小さな器。誰かが整えてくれている冷蔵庫だと分かる景色が、今夜は妙に眩しかった。

 優は扉を閉め、背中をそこに預けたまま、膝を折った。
 しゃがみこんだ瞬間、涙が落ちた。音はしないのに、頬が熱い。鼻の奥がつんとして、息が乱れる。

 「……ごめんなさい」
 誰に言っているのか分からない。今日の割れた殻に。匂いに。言葉に。自分に。

 廊下側の扉が静かに開く音がした。颯人が戻ってきたのだろう。足音は絨毯に吸われ、優のところへ近づいてくる。
 颯人は声をかけなかった。代わりに、床に膝をつき、優の隣に座った。距離は拳ひとつ分。触れないけれど、逃げられない距離。

 優は袖で涙を拭こうとして、手が止まった。粉糖の匂いが、指先にまだ残っている。汚したくなくて、汚れているのに、汚したくない。
 颯人はタオルを一枚、そっと差し出した。白いタオルの角が、優の膝に触れて止まる。

 「理由、言わなくていい」
 颯人は小さく言った。決めつけない声だった。正解を押しつけない声だった。
 優はタオルを受け取り、顔を覆った。タオルの布目に息が引っかかり、呼吸が少しずつ整っていく。

 しばらくして、優はかすれた声で呟いた。
 「……ありがとうって、言うの、難しいですね」
 言った瞬間、自分の言葉に笑いそうになって、喉が震えた。泣いているのに、笑いそうになる。今日の自分は本当に下手だ。

 颯人は少しだけ視線を上げ、窓の外の灯りを見た。
 「難しいなら、練習すればいい」
 それだけ言って、また隣に戻る。言葉を増やさない。優の涙が終わる場所を、勝手に決めない。

 優はタオルの端を握りしめたまま、唇だけを動かした。
 「……あ、り……がとう」
 声は息みたいに小さくて、自分でも聞こえたか分からない。

 颯人は横を向かないまま、短く言った。
 「届いた」
 たった二文字で、優の胸の奥がふっと緩む。涙の味がまだ残っているのに、口の端が勝手に上がった。

 「……もう一回、言います」
 優は鼻をすすり、今度はタオルを少しだけ下ろした。
 「ありがとう」
 言い切った瞬間、頬が熱くなる。言えたことが恥ずかしいのに、言えたことが嬉しい。

 颯人はやっと優のほうを見た。目尻がほんの少しだけ柔らかくなっている。
 「……上手になった」
 褒めるみたいな言い方じゃない。事実を確認するみたいな言い方。それが、優にはいちばん効いた。

 颯人は立ち上がり、キッチンに向かった。電気ケトルのスイッチを押す音。引き出しを開ける音。
 優は慌てて言った。
 「その、紅茶は……昨日のが、たぶんまだ」
 颯人は頷き、棚から箱を取り出した。中身を確かめるように一つ摘まみ、カップへ落とす。
 「砂糖、入れるか」
 「……今日は、いりません」
 甘いものは仕事場で十分だ、と言いかけて、優は飲み込んだ。代わりに、少しだけ笑った。

 湯気が上がり、部屋に静かな音が戻る。優はソファの端に腰を移し、スマホを手に取った。匿名のページを開く。タイトルは、いつも同じだ。
 ――何気ない日常を淡々と描いた物語。
 今日書けるのは、たぶん、派手な出来事じゃない。
 割れた殻が一つ。水が二口。隣に座る人が一人。
 その全部が、今の自分を支えている。

 優は短い一文だけ打ち込んだ。
 「泣いたあとに、ちゃんと呼吸できた」
 送信はしない。保存だけして、画面を伏せる。言葉は、まだ胸の中で温めておきたい。

 颯人がカップを二つ、テーブルに置いた。白い陶器が木の天板に触れて、こつん、と小さな音がする。
 優はその音に合わせて、もう一度だけ言った。
 「ありがとう」

 優はタオル越しに、隣の気配を確かめた。いる。逃げていない。
 それだけで、胸の割れ目が、少しずつふさがっていく気がした。

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