ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第9話 恋人の移り香

 月曜の二十三時。ミッドナイト・ムーンストーン二十四階の廊下は、昼のざわめきが嘘みたいに静かだった。壁際の間接照明が、絨毯の毛並みを一方向へ整えている。優の足音は丸く吸われ、代わりに心臓だけが勝手に鳴った。

 スイートの扉の前で、優はカードキーを握ったまま、深呼吸を一つした。
 「眠くない」「怒ってない」「疑ってない」
 胸の内で言い聞かせるほど、どれも怪しくなる。

 ドアを開けると、室内は間接照明だけが灯っていた。テーブルに置いたままの湯のみが、ほの白く光っている。優は靴を脱ぎ、キッチンへ回って電気ケトルのスイッチを押した。自分の手が忙しいと、余計なことを拾わずに済む。

 ピッ、と乾いた音。
 その瞬間、背後で扉が開いた。

 「……ただいま」

 颯人の声は低く、疲れを含んでいた。優は振り返る前に、湯のみを二つ並べた。位置をきっちりそろえてから、ようやく笑顔を作る。

 「お帰りなさい。遅くまで、お疲れさまです」

 颯人はネクタイを緩めながら、コートを脱いだ。その瞬間、甘い匂いがふわりと広がった。
 花の香水のような、柔らかい砂糖菓子みたいな匂い。けれど、どこかに、乾いた布の古い甘さが混じっている気もする。
 優の鼻の奥に、薄い針が刺さった。

 優は匂いの正体を確かめるような顔をしないように、視線を湯のみへ落とした。
 いつもなら、颯人のシャツは石けんとホテルのリネンの匂いだけだ。今日は違う。

 「会食、でしたよね。……何か、ありました?」

 言いかけて、優は言葉の末尾をほどいた。問い詰める形にしたくない。自分の声が上擦るのも嫌だ。
 颯人は、靴をそろえてから顔を上げた。真っ先に言ったのは、言い訳ではなかった。

 「待たせた。悪い」
 それだけで、優は喉の奥がきゅっと縮む。

 「大丈夫です。私は……仕込みも終わってますし」

 嘘ではない。明日のムーンストーン洋菓子店の段取り表も、材料の発注も、前倒しで片づけた。
 ただ、胸の中に残っているものは、どれだけ段取りを良くしても片づかない。

 颯人が袖をまくろうとして、ふと手を止めた。
 「……優、眠いか?」
 「眠い、というより。今日は、少しだけ頭が熱いです」
 優は笑いながら、ケトルの湯気に指先を当てたふりをした。

 颯人は黙って、洗面所へ向かった。扉が少しだけ開いたまま、手を洗う音が聞こえる。
 優は、その音に合わせて呼吸を整えた。匂いを追いかけたくないのに、鼻が勝手に拾ってしまう。

 湯気が落ち着いたころ、颯人が戻ってくる。白いシャツの胸元にわずかな皺。そこにも、あの甘い匂いが残っている気がした。

 「飲むか」
 颯人が湯のみを手に取った。指先が、熱さを確かめるように丁寧だ。
 優は湯のみを持ち上げたまま、口をつけずに数秒止まった。

 聞けない。聞けば、何かが壊れそうだ。聞かなければ、何かが壊れていく。
 両方とも分かっているのに、優は、笑顔のほうだけ選んでしまう。

 颯人が、ふいに言った。
 「今日、俺は——」
 続きは飲み込まれた。颯人自身が、言葉を選び直しているのが分かった。
 「……明日も早い。先に休め」
 「はい。颯人さんも、休んでください」

 優は立ち上がり、寝室のドアノブに手をかけた。
 そのまま閉めればいいのに、最後にもう一つだけ、笑いの形を作ってしまう。

 「シャツ、あとで私が洗いますね。……匂いが、ついてるので」

 言ってしまった。けれど「女性の」とは言わなかった。匂いの主語をぼかしたまま、引き返せる道を残す。
 颯人は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。

 「頼む。……助かる」

 助かる。そう言われた瞬間、優は胸の中の小さな棘を、自分で押し込んだ。
 「はい。おやすみなさい」
 優は寝室に入り、ドアを静かに閉めた。鍵の音を立てないように。

 暗い部屋で、優はベッドに腰を下ろし、指先を握りしめた。
 笑ってやり過ごしたのは、自分だ。誰も責められない。
 それでも、胸の奥で匂いだけが、しつこく残る。

 優は枕元の小さなノートを開いた。表紙には、自分で書いたタイトル。
 「何気ない日常を淡々と描いた物語」
 今日も一行だけ書けば、気持ちは整うはずだった。

 『月曜の夜。私は、——』

 そこでペン先が止まる。続きを書くと、匂いに名前がついてしまう。名前がつけば、形ができる。形ができたら、壊れる音まで聞こえてしまいそうだ。
 優は紙の端を親指でこすり、書きかけの一行に線を引いた。

 代わりに、洗濯かごへ向かう。
 颯人が脱いだシャツを手に取ると、甘い匂いが強くなった。優は呼吸を浅くし、シャツを胸に近づけないように持つ。嫌だと思っているのに、確かめてしまう自分が嫌だった。

 洗面台に水を張り、無香料の洗剤を落とす。泡が広がるのを見つめながら、優は小さく呟いた。
 「……私がやりました」
 誰にも聞こえない声で。あの夜のメモと同じ言葉を、今度は自分の胸に貼りつける。

 シャツを沈め、手で押す。匂いが薄まっていく。薄まった分だけ、胸の奥がひやりとした。
 自分が、何かを失う前に消してしまったみたいで。

 リビングから、颯人が椅子を引く音がした。カップを置く音。遠い呼吸。
 優は背中を向けたまま、すすぎの水を流した。

 翌朝、火曜の六時二十五分。ムーンストーン洋菓子店の厨房に入ると、粉糖とバターの匂いがいつも通り迎えてくれた。
 優はその「いつも通り」に、ほっとしたふりをした。計量台に薄力粉を置き、温度計をのぞき、指先を動かす。動かせば、心も追いつくはずだ。

 「優、目の下、うっすら青いよ」
 七夕が、計量カップを洗いながら言った。水筒の蓋をしめる手つきが無駄にきっちりしている。

 「寝不足じゃないです。……少し、考えごと」
 「考えごとは胃にくる。匂いも我慢すると胃が荒れるよ」
 七夕は真顔で言い切り、棚から生姜の飴を二粒、優の手のひらに落とした。

 「匂いで?」
 優が思わず聞き返すと、七夕は頷く。
 「鼻で我慢して、喉で我慢して、最後に胃が引き受ける。だから、我慢は早めにほどく」
 言いながら、七夕は自分の水筒を一口だけ飲む。まるで点検みたいに。

 そこへ、ちほがトレーを抱えて通りかかった。
 「朝から医学っぽいこと言ってる。……優、飴、食べな。顔が砂糖切れてる」
 ちほはそう言って、焼き網の位置を指で直す。直し方が、やたら速い。

 優は、生姜の飴を見つめた。甘い匂いが、まだ胸の奥に残っている気がして、笑うしかなかった。
 「……じゃあ、私、胃に謝っておきます」
 「謝るなら、先に呼吸だよ」
 七夕は換気扇のスイッチを入れ、空気の流れを作った。

 優は飴を口に入れる。生姜の刺激が、鼻の奥の甘さを少しだけ押し流した。
 その瞬間だけ、胸の棘が抜けた気がして、優は作業台に向き直る。

 粉糖をふるうと、甘い白い粉が空気に舞い、厨房の匂いは一気に「お菓子」に戻る。
 優はその甘さに救われるはずなのに、昨夜の甘さが重なってしまい、喉の奥がきゅっとした。
 「ほら、飲む」
 ちほが紙コップにぬるい水を注いで差し出す。優は受け取り、二口だけ飲んだ。水は味がないのに、胸の中のざらつきが少しだけ沈んだ。
 今日は、マカロンの表面をきれいに焼く。
 たったそれだけのことを、失敗しないように。
 優は粉糖の袋を抱え直し、目の前の「今」に指先を並べた。

< 9 / 20 >

この作品をシェア

pagetop